私の戦後70年 テロについて ②

2016年3月21日月曜日 | ラベル: |

警察庁外事情報部長・松本光弘氏の「イスラム聖戦テロの脅威
―日本はジハード主義と戦えるかー」のご紹介

 5月26日~27日の三重県の志摩観光ホテルで開かれる「伊勢志摩サミット首脳会議」まで70日ほどになりました。2020年(平成32年)7月24日〜8月9日間に東京都を中心に開催される予定の第32回夏季オリンピックも含め、テロ対策が盛んに論じられています。
 私は警察政策学会「テロ・安保部会」に所属しています。2月8日(月)警察庁警備局外事情報部長 松本光弘氏の「国際テロ情勢について」のお話をお聞きしました。松本さんは、講談社から「イスラム聖戦テロの脅威」を出版されています。その内容の一部をご紹介致します。
 テロリスト、特に自爆テロリストは刑罰では抑止出来ません。また社会を狙ったテロでは誰でも被害に遭うことことが起こり得ます。昔の極左テロや民族紛争のテロに比べてテロの性格が異ってしまって、テロの対象は無差別化し、被害が甚大化しています。
 また、イスラム過激派メンバーではないが、その過激思想に共鳴して、イスラム過激派と同様のテロ行為を国内で独自に行うケース、例えばロンドン同時爆破事件やボストンマラソン爆弾テロ事件のようなホームグロウン・テロも発生して、テロの事前探知は非常に困難になっています。
 「イスラム聖戦テロの脅威」の記述によれば、
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 アルカイダには「本家アルカイダ(タリバン統治下のアフガニスタンの組織・ネットワークとその残党)」、「アルカイダ星雲(本家アルカイダからイデオロギー的鼓舞を受続ているグループ。本家アルカイダのイデオロギーとテロ方法論を奉じ、提携し、協賛している。)」があり、アルカイダ星雲は世界的に拡散している。本家は戦略的指導までで基本的には自活的で地元グループ独自の攻撃目標を否定しない。「アルカイダ星雲」に「本家アルカイダ」を加えて、「広義のアルカイダ」と呼ぶ。
 さらに、この「アルカイダ星雲」外側にホームグロウン・テロリストなどと呼ばれている「広義のアルカイダ」と直接の関係を持たないまま、その思想に感染した者たち、「勝手なアルカイダ」が存在している。
次の図をご覧ください。


 イスラム聖戦テロの脅威 P.95

  「イスラム国」は「アルカイダ星雲」に加わったが、その後土着化を強め、アルカイダからは距離をおいている。「国家崩壊地帯にイスラム国家を作ろう」が基本姿勢になっている。
  今日のテロの脅威は、且ての極左テロや民族紛争テロに比べ、一方でテロに走る者の性格が異なり、他方でテロの無差別化と被害甚大化により、事前阻止が求められているが、危険の早期探知は至難の技である。テロ対策と個人の自由とをどのように折り合いをつけるかも悩ましい点である。
 〇「イスラム聖戦テロの脅威」P.261我が国の課題の記述です。
  テロリストを暗殺したりせずにテロを未然防止するためには、正確な諜報を幅広く集め続けなければならない。欧米当局の諜報蒐集手段ハ、レパートリーが広い。とりわけ通信傍受は臨機応変にでき、多くのテロ阻止やテロリスト逮捕につながっている。
  欧米のテロネットワークは、従前なら血縁や地縁で辿られたが、今日ではアフガン訓練などで秘密裏に育んだ友情で結び付いている場合も多く、電話やインターネットで稀に、かつ目立たないように通信するだけで、顔も合せない。
  そのような、脅威に対抗するためには、ネットワークを炙り出し、監視するための技術的手段が必要。欧米では通信傍受や屋内監視が治安当局に授権されているのは、論理的に必然である。欧米などでは、真正な旅券を持ち、具体的な犯罪嫌疑もないテロ容疑者が入国下場合でも、行政的な通信傍受などにより、動静や接触相手を秘密裏に監視する。
  しかし、我が国ではそうした監視手段は極度に限定されている。誰と接触し、どこを狙っているのか、ほとんど知りようがない。外国では当然の手法を使えないと日本がブラックボックス化し、国民の国内外での安全に支障を生じかねない。
 日本の治安維持システムは、伝統的な法治国家の犯罪取り締り枠組みしか存在しない。それで国民、国家の安全を守りきれるのか - 我が国がテロ対策で直面している最大の課題だ。
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(所見)
 もし可能なら、「イスラム聖戦テロの脅威」¥920 講談社+α新書を是非お買い求め下さい。
 5月26日~27日の「伊勢志摩サミット首脳会議」の状況、オリンピックについては、2012年7月27日から8月12日までイギリスの首都ロンドンで開催された、第30回夏季オリンピックにおける英国の対応、さらには今年8月5日から8月21日までブラジルのリオデジャネイロで開催される第31回夏季オリンピックの状況をなど注視し、テロ対策に万全を期すべきだと思いますが、引用の最後に書かれれている「我が国がテロ対策で直面している最大課題」は当面改善されるとは思えません。警備当局の苦心と、国民の協力で何とか解決する他はないかと思いますが、私は極めて悲観的です。皆様はどうお感じでしょうか。

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私の戦後70年 テロについて

2016年1月17日日曜日 | ラベル: |

2015年9月6日以降休んでおりましたが再開致します。

○ 私の戦後70年 テロについて

 2015年(平成27年)1月7日 にフランス・パリ11区にある風刺週刊誌を発行している「シャルリー・エブド」本社が襲撃され、警官2人や編集長、風刺漫画の担当者やコラム執筆者らあわせて、12人が殺害されました。
 更に11月13日にはパリ市街と郊外のサン=ドニ地区の商業施設において、イスラム国(ISILないしIS)の戦闘員と見られる複数のグループによる銃撃および爆発が同時多発的に発生し、死者130名、負傷者300名以上に達するテロ事件が起こりました。 
 我が国でも、2016年(平成28年)5月26日~27日の伊勢志摩サミット、2020年(平成32年)7月24日〜8月9日東京都で開催される予定の第32回夏季オリンピックを控え、テロ対策が喧しく論じられています。
 我が国はテロとは無縁だったと思われている方も多いと思います。

 私は、1969年(昭和44年)4月28日沖縄反戦デー当日、銀座松屋デパートの前にあった都市銀行の銀座支店に勤務していました。その夜銀座4丁目角の交番は焼き打ちされました。デモ隊と警官隊との衝突に備え支店の男子職員は店に待機していました。店の前にはデモ隊の学生達が投石の準備をして屯していました。新橋の方向から警官隊が迫って来て、あわや市街戦開始かという直前にデモ隊が逃げてしまい、店は無事でした。地下鉄銀座駅は閉鎖されていたので、築地から地下鉄に乗って帰宅しましましたが、銀座駅を通過する時催涙ガスで目が痛くなりました。
 その当時、過激な集団が銀行のカウンター越しに火炎瓶を投げ込む恐れがあると言われていました。銀行の来店客の持物を一々チェックすることは不可能です。「火炎瓶で火傷を負った場合、衣服を脱がそうとすると皮膚が剥がれてダメージが大きくなるので、衣服はそのままで先ず水を掛けて冷やす。」という対策の為、営業場に水の入ったバケツを幾つも置いていました。
 その頃、支店の外の道路に古い乗用車が放置されていて、何やらケーブルみたいなものが見えていました。爆発物を積んだ車かも知れないと警察に通報し、チェックして貰ったところ単なる故障車でした。
 それから5年後、1974年(昭和49年)8月30日のお昼、亀戸支店長だった私はお得意様の鉄骨橋梁メーカーの副社長の方と,建替え前のパレスホテル最上階のレストランで食事をしていました。午後0時45分丸の内の方向のビルから真白い煙が立ち昇りました。ビルの屋上で何かが爆発したのかと思いました。直後に地上を多数のパトカーと救急車が気違いのように走り始めました。そこへ、お得意様の鉄骨橋梁メーカーの社長が三菱重工業前の爆発で重傷を負い、日比谷病院に運ばれたという知らせが入りました。私は直ちに支店長車をお貸しし、副社長に日比谷病院に急行して頂きました。日比谷病院では負傷者が数多く運ばれて手が回らないので、別の病院に分散させようとしているさなかに副社長が到着され、社長を掛かりつけの関東逓信病院に運び、長時間の手術の末一命を取り止めることが出来ました。ビルの陰に駐車していた社長車の運転手が血まみれの社長を抱き起こしている写真が写真週刊誌の表紙になりました。これは、東アジア反日武装戦線「狼」による無差別爆弾テロ事件でした。
 その年の暮、「過激派が財閥系の金融機関を襲う恐れがある。」との情報がもたらされました。私の銀行は関西の財閥系で亀戸支店は亀戸駅の前で目立った所にあり、近くに同じ財閥系のメーカーの施設もありました。所轄の警察署にお願いして12月31日の営業時間中は制服の警官に店頭に立って頂きました。私は、万一の場合に恥をかかないよう,新しい下着を身に着けて出勤しました。31日午後3時無事営業が終り、店を閉めた後所轄警察署にお礼に行きました。
 私は都市銀行勤務中、何度かテロを身近に経験していますが、日本人としては異例なのでしょうか。。

 都市銀行退職後ご縁があって、警察政策学会テロ・安保部会に所属しています。
 ある時イギリスの北アイルランドテロの話題でイギリスの専門家がお出でになりました。東京大学で会合がありました。お茶の水の聖橋から東大行きのバスが出ています。その専門家がJRお茶の水駅で降りられた時、ホームのベンチに紙袋が放置されていました。彼は真っ青になって「あれはなんだ」といったところ、案内役の東大の大学院の女性は、「誰かの忘れ物でしょう」と答えたそうです。放置された紙袋(爆発物ではないか)に対する意識がかくも異なるものかと、その会で話題になりました。英国の北アリルランド・テロ対策の法律では、疑わしい場合は何の根拠もなく家宅捜査をしたり、一定時間拘束することが出来るとなっていることに対し『わが国ではとんでもないことと反対されるだろう』という意見になりましたが、現実にはそうでもしなければ北アイルランド・テロ対策は出来なかったのだと思います。
 1995年(平成7年)3月20日に、東京都の帝都高速度交通営団の駅でオウム真理教が起こした、サリンを使用した同時多発テロ事件で、死者を含む多数の被害者を出しました。
 核(ATOMIC)、生物(BIO、)化学(CHEMICAL)の3つの頭文をとっててABCテロと呼びます。まだ伝統的な爆薬によるテロが主流ですが、この事件は化学兵器によるテロの世界最初の成功例として、世界に大きな衝撃を与えました。
 アメリカ・ニューヨークの危機管理監の方が警察政策学会テロ・安保部会で話をされた時、「日本人は何故あの事件で薬物がサリンだとすぐ判ったのか。」と質問されました。当時の警察庁の関係者が「実はその前1994年(平成6年)6月27日に長野県松本市でサリンが撒かれ,犯人はオウム真理教教徒らだと思われ、警察としては自衛隊と連絡を取りサリンについて研究していた。」と答えたところ初めて納得していました。日本人には地下鉄サリン事件が「化学兵器によるテロの世界最初の成功例」だとの認識が薄いうように思われます。
 築地の聖路加病院では日野原重明先生以下が多くの被害者の救護に当たられました。警察政策学会テロ・安保部会では聖路加病院の方のお話もお聞きしました。たまたま当日セミナーが行われる予定で、ビデオ機材が用意されており、サリン事件の救護の状況が記録されました。これは大変貴重な記録で米国からも閲覧の希望が寄せられたそうです。聖路加病院は廊下や礼拝堂にも救急施設が設けられていて大いに機能を発揮したようですが、礼拝堂の換気が不十分でサリンによる二次汚染が発生したとのことでした。
 昔の軍歌「戦友」に「軍律(ぐんりつ)嚴し(きびし)き中なれど/ 是(これ)が見捨て(みすてて)ゝ置かれよか /確りせよと抱き起し /假繃帶も彈丸(たま)の中」とありますが、ケミカル・テロの場合、「確りせよ」と抱き起こすについては、二次汚染を覚悟で抱き起す必要があります。二次汚染を除くには、衣服を脱ぎ棄て、シャワーを浴びるのが最も簡便な方法だとのことでした。爆発音も無く人がバタバタと倒れている場合はケミカル・テロかと疑って、一般人が救助する際には二次汚染を覚悟して行うべきだと言われています。
 ケミカル・テロについて、「一般の人は二次汚染を覚悟で救助する」といった知識の普及が我が国ではまだまだ不十分だと私は思います。
 私は今海外における社員の安全をサポートする会社のお手伝いをしています。その会社で、イギリスの危機管理対応の会社の方のセミナーをお聞きしました。例えば無差別テロでテロリストに銃口を向けられた場合はなるべくは逃げるべきだと言われました。然し、逃げる暇もなく銃口が向けられている場合は、一歩踏み込んで片手で相手の銃口を上に向け、もう一方の手で相手の腕を叩いて銃を落とす。その動作の訓練をされました。ケミカル・テロの場合の教訓もそうですが、最悪の場合座して命を落とすのか、死中に活を求めるのか、そういった知識をを知っているかいないかは重大な問題だ痛感します。
 我が国では、個人々々のテロに対する心構えや対策の普及が遅れているのではないかと思います。好むと好まざるに拘わらず、もっとテロに対する基本的な知識・心構えを普及させる必要があると私は思います。

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私の戦後70年 航空機の事故について ③

2015年9月6日日曜日 | ラベル: |

2015年3月29日(日)の「九段三丁目町会の防災訓練」の記事でご紹介した、九段三丁目町会会長の細内進様のご好意で、9月1日に靖国神社で行われた第91回「関東大震災神恩奉謝祭」に参列しました。
 「1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ今日も行われている。」と靖国神社百年史に記述されています。靖国神社も九段三丁目町会の会員です。
 当日は九段三丁目町会をはじめ近隣の町会の幹部の方々が集まられ、昇殿の上「関東大震災神恩奉謝祭」が執り行われました。
 第91回ということは1923年(大正12年)9月1日の翌年以降1回だけ休んだ(恐らく昭和20年敗戦の年だと思います)ということです。1923年(大正12年)9月1日以降、90年以上地元の方々が毎年関東大震災の教訓を思い出し、神恩に感謝しておられるわけで、地域の防災に取って大変意義のある催しだと深く感銘しました。

 2015年7月18日(土)のブログ「私の戦後70年 航空機の事故について①」の記事で、「私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。」と書きました。
  昭和36年10月、私の新婚旅行は京都でした。当時片道の航空券がひと月の給与と同じくらい高価だった時代ですが、私は往復とも飛行機を選びました。当時航空機の旅は少しばかり不安と隣り合わせで、親類からは「何も往復共飛行機にしなくても、せめて片道は鉄道にしたら」と言われましたが、私に取っては乗りたくてたまらなかった夢の実現でした。
 往路は米国のコンベア440メトロポリタン・客席数52席、Pratt&Whitney のエンジン2基を備えたプロペラ機で鈴鹿の上空で大きく揺れました。

 帰路はオランダ・フォッカー社のジェットブロップ機フレンドシップ・客席数40席でした。帰路のフレンドシップの乗り心地の良さは今も鮮やかに思い出されます。

 
当時新婚旅行で搭乗すると申し出ますと、「寿搭乗券」が綺麗な袋に入れて発行されました。

そして、往復とも機長がチケットにサインをして下さいました。
 新婚旅行から43年、平成16年(2004年))12月11日全日空の知人のご好意で、帰路にサインをして下さった吉池庄三元機長様に、羽田空港で夫婦でお目に掛かることが出来ました。再度下記のサインを頂きました。


 吉池元機長様は、戦争中15歳で陸軍航空隊に入隊、飛行兵として戦われ、同期の88人の戦友は24人になりました。戦後独学で操縦士免許を取得、再びパイロットになられました。、昭和30年全日空の前身「日本ヘリコプター」に入社され、全日空の歴史と共に多くの飛行機を操縦された方です。
 これまでのお話は単に私の思い出話に過ぎませんが、吉池元機長様から頂いたお手紙の中身が重要です。
 「二伸・同封申し上げまましたもの(フレンドシップのネクタイピンです)ご存じの

こととは思いますが、全日空に25機導入致しましたフレンドシップの終航に当たり記念として作製、就航乗務した多くの乗員が使用致しているもので、粗品ではございますがお届け申し上げます。
 ご存じのこととは思いますが、此の25機は当時の全日空に「起死回生」の勢いを与え、且つ十余年間運航に1機の損傷も生ぜず、再び外国の大空に快翔の機会を得たことは、全日空の整備陣、そして運航の陣営として大変誇りに思っております機種で、諸外国でも類い稀なことと存じております。」とのことです。
 航空機の事故は、航空界会社の整備陣と運航者の努力で防げる部分があるということを、全日空はフレンドシップの運航で実証されたのだと思います。
 私自身の経験から、航空会社の整備陣・運航者のご努力で、航空機の事故が少なくなることを心から希望致します。

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私の戦後70年 航空機の事故について ②

2015年8月1日土曜日 | ラベル: |

 1985年(昭和60年)8月12日(月)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落しました。乗客・乗員520名が死亡、奇跡的な生存者(負傷者)は4名でした。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2015年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多です。今年の8月12日で事故後満30年になります。

 私は当時住友銀行の研修所長兼東京研修所長として、東京・大阪間を往復していました。銀行は航空会社の大株主で、株主優待券を使うと運賃が安くなります。出張旅費節約のため本部職員はなるべく飛行機を利用することになっていましたので、羽田空港・伊丹空港間を毎週往復していました。前回書きましたように私は乗り物が大好きでしたから、毎週の飛行機での往復は全く苦にならず、むしろ楽しんでいました。
 例えば伊丹空港(大阪国際空港)は滑走路が1本なので、大体滑走路のどのあたりに着陸するかが分かります。乗った飛行機によっては、いつもより手前に着陸する、いつもより先の方に着陸する、滑らかに着地する、ドスンと着地するなど色々です。一度着地寸前に急上昇しました。「滑走路前方に飛行機がまだいましたので」とアナウンスされましたが、新聞記事にもなりませんでした。
 私は、1985年8月12日の午後6時羽田発日本航空123便に搭乗する予定でした。その日は、午後6時からは銀座にある会社の会議室で京都大学法学部同窓会の幹事会がありました。私は東西往復の生活でなかなか出席出来ず、その日の会合も欠席の「はがき」を出していました。ところが前の週の8月8日(木)の午後、ふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思いました。大阪から東京の幹事会社に電話をしました。社長の秘書の方が「眞崎さん、時にはご出席になって下さい。」とあまり熱心に言われるので予定を変更し、翌13日の朝の便に変えました。
 12日午後9時過ぎに帰宅したところ、家内が「日本航空の飛行機が行方不明になっているので、搭乗していたのではないかと大阪の人事部から照会がありました。」と言います。早速大坂に電話をして「乗っていませんでした。」「良かったですネ。」ということになりました。テレビを見ますと乗客名簿が流れていて「ああ、ここに名前が出ていたかも知れなかったのだ。」と思いました。
 翌朝、まだ機体が確認されていない午前7時羽田発の日航機に乗りました。機内には新聞がありません。乗客が「新聞は。」と聞くと、乗務員は「今日は積んでおりません。」と答えました。1面に大きく書かれている「日航機行方不明」という新聞は一切ありませんでした。また、朝になっても全国どこの空港にも不時着していないのですから、絶望的な状況であるにも拘わらず「現在弊社の飛行機が行方不明になっておりまして、大変ご心配をおかけしております。」とのアナウンスもありませんでした。墜落が確認されていないから、何も言わない触れないということに当時の日本航空の企業体質が良く表れていると思います。
 住友銀行の関係者では、OBの子会社の役員、現役の調査部長のお二人が遭難されました。他人ごとではないので、私はお二人のご葬儀に行きました。調査部長の幼いお子様を見て涙が出ました。
 ご遺族に代わってお二人のご遺体の確認にあたられた銀行の部長のお話をお聞きしました。お一方は歯型で、お一方は胸のポケットにあった資料で確認出来たとのことでした。会社の力を借りられず、ご自分たちで遺体の確認をしなければならならなかったご遺族の辛さ、悲惨さは胸を打ちます。遺体安置所の藤岡市内の学校の体育館には死臭が充満し、部長はご帰宅後衣類は焼却したが、髪の毛の死臭がなかなか取れなかったと仰っていました。

 7月25日(金)午後7時30分から、NHKの特報首都圏「問い続けた30年 日航機事故の遺児たち」を見ました。
 機長の娘さんは、事故直後から「人殺しの娘」と罵られる日々を過ごし、加害者側として生きることを強いられたましたが、最後まで力を尽くした機長の父親に誇りを持って生きて来られ、亡き父親の思いを受け継いで、現在は日本航空の客室乗務員となり、飛行機の安全を守っておられるそうです。

 大阪商船三井船舶神戸支店長の河口博次さん(52)の遺体の上着の胸ポケットに
入っていた手帳に7ページにわたって書かれていた遺書も映し出されました。

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「マリコ 津慶 知代子どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい
 パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない
今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは最后とは
何か機内で 爆発したような形で煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ  ママこんな事になるとは残念だ さようなら
子供達の事をよろしくたのむ 今六時半だ
飛行機はまわりながら急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している」

○2010/8/10 11:41 日本経済新聞 電子版 『父の「遺言」胸に25年 日航機墜落直前「幸せだった」』 より
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 私の誕生日は8月11日です。事故日は満52歳1日、河口さんと同じ歳です。もし私が搭乗していた場合、こんな立派な遺書が書けたとは到底思えません。戦中派の方から、この遺書が鉛筆で書かれていることについて、「それは軍人の嗜みなのです。」と教えられました。戦時中ですから、万年筆の時代です。インクは血でにじんでしまうので、「遺書は鉛筆で書くものだ。」ということでした。河口博次さんはご立派です。今この文章を書きながらも涙が止まりません。
住友銀行のお得意先ハウス食品工業の浦上郁夫社長、歌手の坂本九さんもこの事故で亡くなられました。

 
事故後連日悲惨な状況が次々に報道され、誠にキザな話ですが、朝目が覚めると「生きているだけで幸せだ。」と思う毎日でした。暫く経つとまた不平・不満を覚え、事故1年目の色々な特集を観て改めてまた「生きているだけで幸せだ。」と思い直しました。30年目の8月12日に、また想いを新たにすることになります。
 「二度あることは三度ある。」と言います。「三度目の正直」とも言います。次回に書きますが、飛行機に乗りたくてたまらず、新婚旅行で初めて飛行機に乗った喜びを忘れられなかった私ですが、「三度目もまた助かるのか」、はたまた「今度こそは駄目なのか」と色々な思いがして、その後は仕事などで止むを得ない場合以外は、積極的には飛行機には乗らないようになりました。
 京都大学法学部同窓会の幹事会のメンバーからは「貴方はこの会のお蔭で助かったのだから、一生この会に奉仕しなさい。」と言われ、昨年11月にも京都の大会に出席して来ました。メンバーのお一人はわざわざお祝いの席を設けて下さいました。熱心に会への出席をすすめて下さった幹事会社の秘書の方が結婚退職された時には心ばかりのお祝いを差し上げました。ロンドン赴任に当たり、私に同窓会の幹事を引き継ぐようすすめて下さった銀行同期の友人も命の恩人の一人だと思います。
 何故、事故の前の週の8月8日(木)の午後にふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思ったのか、理由は全く見当たりません。運命ということを強く感じます。
 事故の翌年銀行を退職しました。銀行生活29年、第二の人生も今年で丁度29年です。幸いに生き永らえた第二の人生を有意義に過ごさなければ神様に申し訳ないと思います。
 1985年(昭和60年)8月12日(月)に亡くなられた520名の御霊安かれと心から祈念申し上げます。

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私の戦後70年 航空機の事故について ①

2015年7月18日土曜日 | ラベル: |

 6月は郷里の長崎県諫早市で法事があり、1ヶ月休みました。掲載時期が不定期になることをお許しください。

○私の戦後70年 航空機の事故について ①
 私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。
 1952年4月9日、大阪経由福岡に向かうべく、羽田飛行場を午前7時42分に離陸した日本航空「もく星号」は伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しました。乗客・乗務員37名は全員死亡しました。当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高かったので、乗客は社会的地位の高い人が多く、漫談家の大辻司郎氏や八幡製鐵社長の三鬼隆氏などなどが犠牲となりました。戦後最初の民間航空機の事故です。私は当時京都大学に入学したばかりで、2015年5月17日(日)のブログに書きましたが、1952年5月1日の『血のメーデー』事件とともに、大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します。
 1966年 2月4日 、千歳空港を17時55分に離陸し、羽田へ向かっていた全日本空輸 60便 ボーイング 727-100が着陸直前に東京湾に墜落、札幌雪まつりの帰りの観光客で満員の乗員乗客133人全員が死亡しました。次いで、3月4日には、カナダ太平洋航空 402便ダグラス DC-8が濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗して爆発炎上、乗員乗客72人中64人が死亡しました。更にその翌日3月5日には英国海外航空 911便ボーイング 707-420が富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解して墜落し、乗員乗客124人全員が死亡しました。この年は2-3月に民間航空機の大事故が続きました。
 私は、1966年2月当時、住友銀行人形町支店に勤務していました。お得意様に今は無い大昭和製紙㈱がありました。1966年2月に私は支店長のお供で大昭和製紙㈱最新鋭の北海道・白老工場の見学に行く予定でした。「丁度札幌で雪まつりをやっています。ご覧になってお帰り下さい。」ということで楽しみにしていました。ところが「大蔵省検査」が行われることになり、白老工場見学は中止になりました。がっかりしていたら全日空機の墜落事故です。白老へ出張していたら、2月4日(金)夜の帰途、全日空機に乗っていたかも知れません。命拾いをしたのかなと当時思いました。
 1966年2-3月にかけての航空機事故については柳田邦男氏の名著「マッハの恐怖」に詳しく記述されています。ブログを書くにあたり、改めて読み直し再び感銘しました。
 


 航空工学の権威として著名な木村秀政教授を団長とする事故技術調査団の中で、山
名正夫教授は、実験の結果機体欠陥説を主張されましたが、多数決で「原因は不明」という結論になった過程には心が揺さぶられます。詳しくは同書を是非お読み下さい。
 柳田氏は「あとがき」(P.386)で、昭和7年2月27日の午後大阪から福岡へ向けて試験飛行中だった日本航空「白鳩号」墜落事件について触れておられます。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な寺田寅彦博士は、白鳩号の「事故調査委員会のメンバーでした。
 『寺田博士は、中央公論昭和10年7月号の「災難雑考」でなかで、この「白鳩号事故調査」の真髄を簡潔に記している。』と柳田氏は紹介しておられます。
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 『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに「機体の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて」「折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して」「引っかき傷の蝋型を取ったのと、それらしい相手の折片の表面にある鋲の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり」、しかも小説に出て来る探偵とちがって、「現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行った。』のである。
 その結果、誰一人目撃者のいないこの事故について、空中分解がどこからはじまってどういう順序で破壊が進んでいったのかを明らかにしたのである。そして、事故の原因は補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてあるタンパックルというネジを留める銅線の強度が弱かったために、悪気流でもまれるうちにその銅線が切れてタンパックルがはずれ、補助翼がぶらぶらになって、機体を分解させるような振動を起こしたものだということを、ついにつきとめたのだった。事故から2年を経過していた。寺田寅彦博士は論じている。
 『要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それを誰も知らずに安心していた。そういう実に大事なことがこれだけの苦心の研究の結果わかったのである。しかし飛行機を墜落させる原因になる「悪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁に新聞で報ぜられる飛行機事故の継続である。(中略)いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして、眞相を明らかにし、そして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。(中略)
 しかし、一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の眞因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が後をたたないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない』(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」より引用)
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 『典的なプロペラ時代のこの指摘が時代の流れを経て、高度なエレクトロニクス文明の時代になった今もなお、生々しい説得力を持っているということは、何を意味するのだろうか。』と柳田氏は慨嘆されています。羽田沖の全日本空輸 60便の墜落事故について、木村秀政教授を団長とする事故技術調査団が多数決で「原因は不明」という結論にされたことに対する柳田氏の思いが良く見て取れます。

 私は2011年9月1日(木曜日)のブログ「推理小説とリスクマネジメント」で
 「私は推理小説を読むのが大好きです。一回だけ行ったロンドンで、1995年(平成7年)11月1日(水)早朝、宿泊先のモントカームホテルから、シャーロックホームズが住んでいた(ことになっている)「Baker Street 221b」へジョギングし、プレートを見て感激して帰って来ました。」
 「色々な手掛かり・情報を基に名探偵が真相を暴き出すについては、論理力に加え、構成力・イマジネーションが不可欠です。リスクマネジメントで将来のリスクを見極めるについても同様の能力が必要だと私は思います。(中略)名探偵、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行には、何れも共通の能力 =論理力、構成力・イマジネーション= が必要だと私は思います。しかもそれは、持って生まれた天性とその後の訓練とが両々相俟つて始めて可能になる能力だと私は思います。」
と書きました。 
 寺田寅彦博士が『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに』と書いておられることは、将に「我が意を得たり」です。
 航空機事故の調査においても、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行においても、「緻密な徹底的な調査を行って、事態の眞相を明らかにし、解決策・対策を樹立する。」という共通の道筋があることを改めて確認出来た思いがします。

 次回は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)に向かった日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した事故に際し、私は、その便に乗る予定でしたが、前の週の木曜日8月8日にふと予定を変更し、命拾いをしたことについて書きます。


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私の戦後70年

2015年5月17日日曜日 | ラベル: |

 ブログのアップをして下さっている方が、海外出張をされたため今回のアップが遅くなりました。

 4月12日(日)のブログに、〇城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」を書きました。
 住友銀行の旧同僚の方から、自分は『大分県の臼杵のご出身』ではなく、津久見で育ち臼杵に通学(中津留大尉も同様)したので、『津久見・臼杵出身』、お父様は『津久見の特定郵便局長』だと訂正の申し出がありました。謹んで訂正致します。申し訳ありませんでした。
 『また遺児の中津留鈴子さんにも、ブログを手紙で知らせます。喜ばれると思います。』とのことでした。
今回も戦中・戦後のことを書きます。

○私の戦後70年

 私は昭和8年8月11日生まれです。天皇陛下は昭和8年12月23日のお生まれですから、私は陛下より4ヶ月早く生まれています。
 米・英などとの戦争が始まった昭和16年12月8日、私は朝鮮(現韓国)の京城(現ソウル)の南大門国民学校(現小学校)の2年生でした。「米英両国と戦争状態に入れり。」というラジオのニュースを聞いた時は、子供心にも大変なことになったと思いました。
 昭和17年11月に父が退官しましたので、九州へ帰り、佐賀市に住むことになりました。佐賀市は郊外の一部が焼夷弾で焼失した他は大きな戦災を受けず、比較的穏やかな戦時中でした。しかし、福岡市の空襲の際は脊振山の向うの空、大牟田市が空襲を受けた際は、南の有明海の向うの空が真っ赤になりました。
 軍(大本営)の発表では、常に勝っている筈なのに、戦線が段々後退して本土に近づいて来るのは何故だろうと不思議に思っていましたが、前にも書きましたようにそんなことを言うと「非国民」と言われるので口には出せませんでした。
 昭和20年8月15日は国民学校(現小学校)の6年生、学校は夏休みで家にいました。晴れた暑い日でした。ラジオから聞こえる天皇陛下のお声は良く聞き取れませんでしたが、戦争が終わったということは判りました。その晩から、空襲に備えて窓を塞いでいた黒い布を取り去り、明るい電燈の下で暮らせることになったことが、大変印象に残っています。
 戦後の食糧不足、アメリカ軍の支配、社会体制の激変などに関しては田舎なので、比較的穏やかな毎日を過ごしました。
 1952年(昭和27年)4月京都大学に入学しました。入学直後の5月1日、皇居前広場で学生たちと警官が衝突,『血のメーデー』事件が発生しました。当時の京都大学は全学連の中核的存在でした。翌1953年(昭和28年)11月11日には、京都大学の学生のデモ隊と警察官が鴨川にかかっている荒神橋でもみ合い、学生15名が浅瀬に落下、うち7名が頭蓋骨折を含む重軽傷を負うという「荒神橋事件」が発生、「川端警察署に抗議に行こう。」とか、全学スト決行など、田舎育ちのノンポリ(英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。)の私は右往左往するばかりでした。佐賀へ帰省すると京都大学に行った学生は赤くなっているから(共産党の思想に染まっているの意)付き合わないようにとのお触れが回っていました。
先祖のお墓のある諫早市の郊外の当時の国鉄長崎線の線路のそばを歩いていたら、「何をしている。」と警察官に職務質問されました。大学生が破壊活動を企んでいるのかと疑われた訳です。寄留先の地主の伯父の名前を言って無事放免されました。
 就職試験では、「内灘事件(1952年アメリカ軍の砲弾の試射場が必要となり石川県内灘砂丘に決定された。これに対する反対闘争)をどう思いますか」と質問されました。
 住友銀行に入行して大阪の支店に配属され、3年後の1960年(昭和35年)5月東京勤務になりました。赴任直後の6月11日に東京大学の学生樺美智子さんが、デモが衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡されました。渋谷の近くの南平台の岸総理大臣の自宅のあたりは「岸を倒せ」のデモ隊で埋まり、東京は政治の中心だと痛感しました。
 1969年4月28日の「沖縄デー」では松屋デパートの前の銀座支店にいました。その夜銀座4丁目の交番は焼き打ちされました。男子職員は店を守れと残っていました。支店の前では警官隊とデモ隊が対峙し、あわや市街戦となる寸前にデモ隊が逃げてしまって、支店は無事でした。
 1984年(昭和39年)8月30日のお昼、当時亀戸支店長だった私は、お得意様の宮地鉄工所の副社長と、皇居前のパレスホテルの最上階のレストランで食事をしていました。丸の内方面のビルに真っ白な煙が立ち昇り、すぐに地上を多数の消防車や救急車が走り始めました。そこへ「社長が三菱重工業前で重傷を負い、日比谷病院へ運ばれました。」との連絡がありました。副社長に支店長車をお貸しして、日比谷病院に急行して頂き、重傷の社長をかかりつけの関東逓信病院に移し、一命を取り止めることが出来ました。
 学生時代、銀行勤務時代共に、政治闘争は身近で、その時々自分は如何に身を処すべきか考えさせられました。
 話は変わりますが、1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎氏の長女・美智子様を皇太子妃に迎えることを可決したと発表しました。1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業されていた美智子様は、その年の夏、皇太子様と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子様は美智子様のお人柄に惹かれて自らお妃候補にと言及されたと報道されました。銀行入行2年目、同年代の者としては、時代の変化について強く感ずるものがありました。
 私事で恐縮ですが、私の銀行時代の上司の奥様が美智子様の聖心女子大学時代のクラスご担当であった英国児童文学ご専門の猪熊葉子教授、私の家内の従姉妹が美智子様と同クラスだったので、美智子様のことをお聞きする機会が色々ありましたが、誠に良くお出来になったお嬢様だったとの感を強くしています。また美智子様ご成婚後の皇室に対する態度などを拝するにつけ、ご実家の正田家も大変立派なお家だとつくづく思います。
 最近、戦後70年に当たり,戦争によって亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,また我が国とパラオ国との友好親善関係に鑑み,天皇皇后両陛下がパラオ同国を御訪問になりました。4月8日はコロール島 、ここは第一次世界大戦後南洋諸島が日本への委任統治領になった時期南洋庁が置かれていました。4月9日は ペリリュー島、ここでも第二次世界大戦で日本軍は玉砕しています。熱帯の地をご高齢の両陛下がわざわざご訪問になるについて、そのお気持ちが強く私の感動を誘います。東日本大震災の被災地ご訪問といい、比較しては不敬にあたるとは重々思いますが、わが身に比べ何とご立派なことかと思います。
 前回も書きましたが戦後70年、何が問題だったのか、今後如何にあるべきか。自分の人生も含めて改めて回顧・反省すべきだと痛感しています。

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城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」

2015年4月12日日曜日 | ラベル: |

 3月15日(日)のブログに、『住友銀行の旧同僚の方から「南国忌」に誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。』と書きました。今日はその後日談です
 彼と「一度お昼ご飯でもご一緒しましょう。」ということになり、3月30日(月)お茶の水の行きつけのフレンチでお昼を食べ、お花見に行って来ました。
 先ず、靖国神社に行って、靖国神社境内にある、気象庁が東京の桜の開花宣言をする際の基準木を見た後、「遊就館」へ行きました。
 彼は大分県の臼杵のご出身なので、「遊就館」に展示されている臼杵出身の彫刻家日名子実三さんの兵士像、大友宗麟の臼杵城の青銅砲を見て感激している内に、1945年(昭和20年)8月15日午後5時過ぎ(戦争終結の玉音放送の後)沖縄へ特攻出撃された宇佐の第五航空艦隊長官宇垣纏中将の搭乗機を操縦して亡くなった中津留達雄大尉の機上写真が展示されているところで、大きな感動を受けられたご様子でした。「どうしたのですか。」とお聞きしますと、「臼杵で特定郵便局長をしていた、私の父は中津留達雄大尉ご遺族の相談相手だったのです。遺児の鈴子さん(後述)の結婚の際、父は頼まれ仲人をしました。」と申され、城山三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)を是非読んで下さいと言わましたので、早速求めて読みました。

 1944年(昭和19年)10月25日、関行男中佐(二階級特進)の率いる神風特別攻撃隊・敷島隊がフィリピンのレイテ島沖で体当たりの攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈しました。神風特別攻撃隊の第一陣です。私は当時国民学校(現在の小学校)5年生でした。敷島隊のことが大々的に報道された時、子供心にも「何というむごいことだ。」と思いました。その後特別攻撃隊出撃のニュース映画を学校から見にいった時、出撃前に挙手の敬礼をされている特別攻撃隊の方々のお顔を見るのが辛かったことを今も鮮明に覚えています。しかし、当時そういった感想を述べると「非国民」と言われましたので心の中にしまい込んでいました。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」によれば、関行男中佐と中津留達雄大尉は昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した同期生(第70期)です。
 関中佐は特別攻隊第1号で、中津留大尉は最後の特攻を企図した第五航空艦隊長官宇垣纏中将が搭乗した「彗星」を操縦された訳です。最初の特攻隊長・関行男大尉(当時)に対して、中津留大尉は最後の特攻隊長と言われています。
 「指揮官たちの特攻」にはお二人の比較が書かれていて大変興味深いのですが割愛します。
 中津留大尉は大正11年1月大分県の津久見町で生まれ、臼杵中学から海軍兵学校に入学されました。昭和19年1月宇佐航空隊付教官になり、3ヶ月後結婚されています。その後美保基地を経て、当時の最新鋭機「彗星」1個中隊を率いて大分基地へ行かれました。その際上司の計らいで、お七夜に津久見で初めて娘の鈴子さんに1回限りの父子対面、その3週間後に死亡(戦後死)されています。享年23歳でした。
 
 1945年(昭和20年)8月15日第五航空艦隊長官宇垣纏中将は中津留大尉を呼び、戦争終結を告げず特攻出撃を命じました。午後5時過ぎ中津留大尉率いる彗星11機は出撃しました。指揮官機には宇垣纏中将が乗り込んでいました。宇垣纏中将は山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。その夜、中津留機他一機が沖縄・伊平屋島(いへやじま)に突入したことは確実です。8月15日の夜、米軍キャンプでは明々と電灯をつけ勝利を祝うビア・パーテイ中でした。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」では中津留大尉の最後の状況を以下のように推測しています。
 「敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中津留は疑問を感じ、その結果戦争が終わったことを知る。(中略)そのとき、天地の暗闇の中でただ1ヶ所,煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命じる。
 もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前左へ旋回する。突入を知らせる長音符が普通より長かったという司令部通信室の証言がそれを裏付ける。
 編隊での高等飛行で中津留に鍛えあげられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間的に読みとり、もはや方向を変える余裕もないまま、機を引き起こしキャンプの先へ ╍╍ というのが。現地に立っての私の推理である。
 (中略)
 断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。
 騙し打ちにはじまり、騙し打ちに終わる日本は世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。
 中津留大尉は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突し、続く部下機は基地を越えて水田に自爆したと見られています。

 住友銀行の旧同僚の方からは、彼の旧住友銀行のOB会会誌への寄稿『中津留大尉の遺徳を偲ぶ ー 日本の名誉を守った救国の青年将校』、雑誌に掲載された遺児中津留鈴子さんの手記『「指揮官たちの特攻」で父に会えた。』、城山三郎氏の対談『中津留大尉の決断』なども送って頂き、全部を読み終わって、改めて深く々々感動しました。
 私は幼い日、神風特別攻撃隊の報道について子供心に感じたことを改めて思い浮かべました。戦争は非人間的だと言われます。然し、第二次世界大戦の末期の特別攻撃隊、或いは人間爆弾「桜花」人間魚雷「回天」などの特攻兵器で、有為の若人達を死地に追いやった当時の軍の上層部の考えは、生還の望みの全くない攻撃を部下に命令したもので、個人の人格を全く無視したものであり、戦争の非人間性とは異なったむごいことです。それで、軍国少年だった幼い私は違和感を感じたのだろうと思います。

 宇垣纏中将は、敗戦時の8月15日に自決された阿南惟幾陸軍大臣のように一人で自決されるべきだったと私は思います。有為な若者を道連れにするべきではなかったと私は確信します。ただ、その結果中津留大尉は日本の名誉を守った救国の青年将校となられた訳です。
 2013年10月1日のブログに書きました「無言館」の戦没画学生の絵画のこと、2013年10月10日のブログに書きました窪島誠一郎様のご著書「夜の歌」の作曲家尾崎宗吉氏の物語、何れも第二次世界大戦が奪った若き才能の物語です。
 戦後70年、第二次世界大戦の記憶は薄れる一方です。何が問題だったのか、私たちは改めて回顧すべきだと痛感します。


○千鳥ヶ淵の桜
 遊就館見学の後、千鳥ヶ淵の満開の桜を見て帰りました。今回のお花見は嘗て無い強いインパクトを受けたお花見になりました。

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