私の戦後70年 航空機の事故について ③

2015年9月6日日曜日 | ラベル: |

2015年3月29日(日)の「九段三丁目町会の防災訓練」の記事でご紹介した、九段三丁目町会会長の細内進様のご好意で、9月1日に靖国神社で行われた第91回「関東大震災神恩奉謝祭」に参列しました。
 「1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ今日も行われている。」と靖国神社百年史に記述されています。靖国神社も九段三丁目町会の会員です。
 当日は九段三丁目町会をはじめ近隣の町会の幹部の方々が集まられ、昇殿の上「関東大震災神恩奉謝祭」が執り行われました。
 第91回ということは1923年(大正12年)9月1日の翌年以降1回だけ休んだ(恐らく昭和20年敗戦の年だと思います)ということです。1923年(大正12年)9月1日以降、90年以上地元の方々が毎年関東大震災の教訓を思い出し、神恩に感謝しておられるわけで、地域の防災に取って大変意義のある催しだと深く感銘しました。

 2015年7月18日(土)のブログ「私の戦後70年 航空機の事故について①」の記事で、「私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。」と書きました。
  昭和36年10月、私の新婚旅行は京都でした。当時片道の航空券がひと月の給与と同じくらい高価だった時代ですが、私は往復とも飛行機を選びました。当時航空機の旅は少しばかり不安と隣り合わせで、親類からは「何も往復共飛行機にしなくても、せめて片道は鉄道にしたら」と言われましたが、私に取っては乗りたくてたまらなかった夢の実現でした。
 往路は米国のコンベア440メトロポリタン・客席数52席、Pratt&Whitney のエンジン2基を備えたプロペラ機で鈴鹿の上空で大きく揺れました。

 帰路はオランダ・フォッカー社のジェットブロップ機フレンドシップ・客席数40席でした。帰路のフレンドシップの乗り心地の良さは今も鮮やかに思い出されます。

 
当時新婚旅行で搭乗すると申し出ますと、「寿搭乗券」が綺麗な袋に入れて発行されました。

そして、往復とも機長がチケットにサインをして下さいました。
 新婚旅行から43年、平成16年(2004年))12月11日全日空の知人のご好意で、帰路にサインをして下さった吉池庄三元機長様に、羽田空港で夫婦でお目に掛かることが出来ました。再度下記のサインを頂きました。


 吉池元機長様は、戦争中15歳で陸軍航空隊に入隊、飛行兵として戦われ、同期の88人の戦友は24人になりました。戦後独学で操縦士免許を取得、再びパイロットになられました。、昭和30年全日空の前身「日本ヘリコプター」に入社され、全日空の歴史と共に多くの飛行機を操縦された方です。
 これまでのお話は単に私の思い出話に過ぎませんが、吉池元機長様から頂いたお手紙の中身が重要です。
 「二伸・同封申し上げまましたもの(フレンドシップのネクタイピンです)ご存じの

こととは思いますが、全日空に25機導入致しましたフレンドシップの終航に当たり記念として作製、就航乗務した多くの乗員が使用致しているもので、粗品ではございますがお届け申し上げます。
 ご存じのこととは思いますが、此の25機は当時の全日空に「起死回生」の勢いを与え、且つ十余年間運航に1機の損傷も生ぜず、再び外国の大空に快翔の機会を得たことは、全日空の整備陣、そして運航の陣営として大変誇りに思っております機種で、諸外国でも類い稀なことと存じております。」とのことです。
 航空機の事故は、航空界会社の整備陣と運航者の努力で防げる部分があるということを、全日空はフレンドシップの運航で実証されたのだと思います。
 私自身の経験から、航空会社の整備陣・運航者のご努力で、航空機の事故が少なくなることを心から希望致します。