「無言館」館主 窪島誠一郎氏のサイン

2013年10月1日火曜日 | ラベル: |

 9月20日(金)の学士会午餐会の講演者は、信州上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」館主・窪島誠一郎氏でした。私は5年前の平成20年8月に「無言館」に行きました。折悪しく館主はご不在でしたので、館員の方にご著書「無言館ものがたり」をお預けしご署名をお願いし、後日送って頂きました。今回是非お会いしてお礼を申し上げたいと思い、学士会午餐会に出席してご挨拶をすることが出来ました。 

〇窪島誠一郎氏です。著名な作家水上勉氏のお子様です。
「父水上勉」 2013年1月白水社が評判です。
 
〇「父水上勉」の表紙です。

   

〇窪島誠一郎氏に頂いたご署名です。

 

〇「無言館ものがたり」の表紙です。


 
 戦没画学生慰霊美術館館「無言館」は、長野県上田市の郊外、美しい浅間山や千曲川の流れが遠く見わたせる山王山という小さな山の上に立っています。空の上から見ると十字架の形に見える80坪ほどの美術館で平成9年5月に開館しています。ここには太平洋戦争で亡くなった画学生たちの作品や遺品が集められています。
 あの時代に、多くの画学生たちが、学校を卒業してすぐ戦地に赴き、絵を描きたい、立派な絵描きになりたいという希望に燃えながら、果たすことなく戦死したり、戦病死されました。、
 ご講演で窪島様から「無言館」は「単なる反戦・平和」ではないとのお言葉があり、非常に心を打たれました。戦争によって自分の一生が失われ、絵を描く事が出来なくなる無念さ、自分の生きた証を絵に注いだ画学生の方々の思いは、結果としては「反戦・平和」に結びつくのかも知れませんが、そんな短絡的なことでは無いということだと思います。
 私は、昭和19年に「神風特別攻擊隊」のことが初めて公表された時、小学5年生の子供心にも何という痛ましい、むごいことかと思いました。学校から神風特別攻撃隊出撃のニュース映画を見に行った際、出発直前に敬礼しておられる特攻隊員の方々の表情を直視することが出来ませんでした。しかし、当時そのような感想を述べれば、「非国民」と言われましたので、心の中にしまいこんでいました。
 昭和27年京都大学入学当時、京都大学は全国の学生運動の中心でした。「米帝反動勢力打破」の掛け声に対して、単純に同感することが出来ませんでした。こういった様々な感慨が「無言館」で改めて蘇り、戦争が数多くの有為な若者達の将来を奪ったということの重さが改めて痛感されました。
 私はご縁があってオペラの団体「東京二期会」の監事をしていますが、戦争の悲惨さ・無念さは、絵の世界の学生さんでも音楽の世界の学生さんでも同じだったと思います。
 敗戦直前の昭和20年5月、学徒出陣で佐賀県の目達原飛行場(現吉野ケ里町)に来ていた上野音楽学校(現東京芸術大学)出身の2人の特攻隊員の方が、鳥栖国民学校(現鳥栖小学校)を訪れ「出撃前にピアノを弾かせてほしい」と言ってベートーベンのソナタ「月光」を奏でて立ち去ったという話が窪島様のお話に出ましたが、私は佐賀で育ちこの話を良く知っていましたので、感慨一入でした。
 現在、戦後68年を経て「無言館」の絵画やデッサンなどの傷みが激しく、「修復の費用が嵩んでいるので是非お力添えを。」というお話でした。その後、僅かばかりですが「無言館」に寄付金をお送りしました。
 次回からはまた「リスクとキャッシュフロー」に戻ります。