私の戦後70年 航空機の事故について ①

2015年7月18日土曜日 | ラベル: |

 6月は郷里の長崎県諫早市で法事があり、1ヶ月休みました。掲載時期が不定期になることをお許しください。

○私の戦後70年 航空機の事故について ①
 私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。
 1952年4月9日、大阪経由福岡に向かうべく、羽田飛行場を午前7時42分に離陸した日本航空「もく星号」は伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しました。乗客・乗務員37名は全員死亡しました。当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高かったので、乗客は社会的地位の高い人が多く、漫談家の大辻司郎氏や八幡製鐵社長の三鬼隆氏などなどが犠牲となりました。戦後最初の民間航空機の事故です。私は当時京都大学に入学したばかりで、2015年5月17日(日)のブログに書きましたが、1952年5月1日の『血のメーデー』事件とともに、大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します。
 1966年 2月4日 、千歳空港を17時55分に離陸し、羽田へ向かっていた全日本空輸 60便 ボーイング 727-100が着陸直前に東京湾に墜落、札幌雪まつりの帰りの観光客で満員の乗員乗客133人全員が死亡しました。次いで、3月4日には、カナダ太平洋航空 402便ダグラス DC-8が濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗して爆発炎上、乗員乗客72人中64人が死亡しました。更にその翌日3月5日には英国海外航空 911便ボーイング 707-420が富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解して墜落し、乗員乗客124人全員が死亡しました。この年は2-3月に民間航空機の大事故が続きました。
 私は、1966年2月当時、住友銀行人形町支店に勤務していました。お得意様に今は無い大昭和製紙㈱がありました。1966年2月に私は支店長のお供で大昭和製紙㈱最新鋭の北海道・白老工場の見学に行く予定でした。「丁度札幌で雪まつりをやっています。ご覧になってお帰り下さい。」ということで楽しみにしていました。ところが「大蔵省検査」が行われることになり、白老工場見学は中止になりました。がっかりしていたら全日空機の墜落事故です。白老へ出張していたら、2月4日(金)夜の帰途、全日空機に乗っていたかも知れません。命拾いをしたのかなと当時思いました。
 1966年2-3月にかけての航空機事故については柳田邦男氏の名著「マッハの恐怖」に詳しく記述されています。ブログを書くにあたり、改めて読み直し再び感銘しました。
 


 航空工学の権威として著名な木村秀政教授を団長とする事故技術調査団の中で、山
名正夫教授は、実験の結果機体欠陥説を主張されましたが、多数決で「原因は不明」という結論になった過程には心が揺さぶられます。詳しくは同書を是非お読み下さい。
 柳田氏は「あとがき」(P.386)で、昭和7年2月27日の午後大阪から福岡へ向けて試験飛行中だった日本航空「白鳩号」墜落事件について触れておられます。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な寺田寅彦博士は、白鳩号の「事故調査委員会のメンバーでした。
 『寺田博士は、中央公論昭和10年7月号の「災難雑考」でなかで、この「白鳩号事故調査」の真髄を簡潔に記している。』と柳田氏は紹介しておられます。
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 『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに「機体の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて」「折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して」「引っかき傷の蝋型を取ったのと、それらしい相手の折片の表面にある鋲の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり」、しかも小説に出て来る探偵とちがって、「現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行った。』のである。
 その結果、誰一人目撃者のいないこの事故について、空中分解がどこからはじまってどういう順序で破壊が進んでいったのかを明らかにしたのである。そして、事故の原因は補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてあるタンパックルというネジを留める銅線の強度が弱かったために、悪気流でもまれるうちにその銅線が切れてタンパックルがはずれ、補助翼がぶらぶらになって、機体を分解させるような振動を起こしたものだということを、ついにつきとめたのだった。事故から2年を経過していた。寺田寅彦博士は論じている。
 『要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それを誰も知らずに安心していた。そういう実に大事なことがこれだけの苦心の研究の結果わかったのである。しかし飛行機を墜落させる原因になる「悪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁に新聞で報ぜられる飛行機事故の継続である。(中略)いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして、眞相を明らかにし、そして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。(中略)
 しかし、一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の眞因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が後をたたないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない』(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」より引用)
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 『典的なプロペラ時代のこの指摘が時代の流れを経て、高度なエレクトロニクス文明の時代になった今もなお、生々しい説得力を持っているということは、何を意味するのだろうか。』と柳田氏は慨嘆されています。羽田沖の全日本空輸 60便の墜落事故について、木村秀政教授を団長とする事故技術調査団が多数決で「原因は不明」という結論にされたことに対する柳田氏の思いが良く見て取れます。

 私は2011年9月1日(木曜日)のブログ「推理小説とリスクマネジメント」で
 「私は推理小説を読むのが大好きです。一回だけ行ったロンドンで、1995年(平成7年)11月1日(水)早朝、宿泊先のモントカームホテルから、シャーロックホームズが住んでいた(ことになっている)「Baker Street 221b」へジョギングし、プレートを見て感激して帰って来ました。」
 「色々な手掛かり・情報を基に名探偵が真相を暴き出すについては、論理力に加え、構成力・イマジネーションが不可欠です。リスクマネジメントで将来のリスクを見極めるについても同様の能力が必要だと私は思います。(中略)名探偵、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行には、何れも共通の能力 =論理力、構成力・イマジネーション= が必要だと私は思います。しかもそれは、持って生まれた天性とその後の訓練とが両々相俟つて始めて可能になる能力だと私は思います。」
と書きました。 
 寺田寅彦博士が『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに』と書いておられることは、将に「我が意を得たり」です。
 航空機事故の調査においても、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行においても、「緻密な徹底的な調査を行って、事態の眞相を明らかにし、解決策・対策を樹立する。」という共通の道筋があることを改めて確認出来た思いがします。

 次回は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)に向かった日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した事故に際し、私は、その便に乗る予定でしたが、前の週の木曜日8月8日にふと予定を変更し、命拾いをしたことについて書きます。