私の戦後70年

2015年5月17日日曜日 | ラベル: |

 ブログのアップをして下さっている方が、海外出張をされたため今回のアップが遅くなりました。

 4月12日(日)のブログに、〇城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」を書きました。
 住友銀行の旧同僚の方から、自分は『大分県の臼杵のご出身』ではなく、津久見で育ち臼杵に通学(中津留大尉も同様)したので、『津久見・臼杵出身』、お父様は『津久見の特定郵便局長』だと訂正の申し出がありました。謹んで訂正致します。申し訳ありませんでした。
 『また遺児の中津留鈴子さんにも、ブログを手紙で知らせます。喜ばれると思います。』とのことでした。
今回も戦中・戦後のことを書きます。

○私の戦後70年

 私は昭和8年8月11日生まれです。天皇陛下は昭和8年12月23日のお生まれですから、私は陛下より4ヶ月早く生まれています。
 米・英などとの戦争が始まった昭和16年12月8日、私は朝鮮(現韓国)の京城(現ソウル)の南大門国民学校(現小学校)の2年生でした。「米英両国と戦争状態に入れり。」というラジオのニュースを聞いた時は、子供心にも大変なことになったと思いました。
 昭和17年11月に父が退官しましたので、九州へ帰り、佐賀市に住むことになりました。佐賀市は郊外の一部が焼夷弾で焼失した他は大きな戦災を受けず、比較的穏やかな戦時中でした。しかし、福岡市の空襲の際は脊振山の向うの空、大牟田市が空襲を受けた際は、南の有明海の向うの空が真っ赤になりました。
 軍(大本営)の発表では、常に勝っている筈なのに、戦線が段々後退して本土に近づいて来るのは何故だろうと不思議に思っていましたが、前にも書きましたようにそんなことを言うと「非国民」と言われるので口には出せませんでした。
 昭和20年8月15日は国民学校(現小学校)の6年生、学校は夏休みで家にいました。晴れた暑い日でした。ラジオから聞こえる天皇陛下のお声は良く聞き取れませんでしたが、戦争が終わったということは判りました。その晩から、空襲に備えて窓を塞いでいた黒い布を取り去り、明るい電燈の下で暮らせることになったことが、大変印象に残っています。
 戦後の食糧不足、アメリカ軍の支配、社会体制の激変などに関しては田舎なので、比較的穏やかな毎日を過ごしました。
 1952年(昭和27年)4月京都大学に入学しました。入学直後の5月1日、皇居前広場で学生たちと警官が衝突,『血のメーデー』事件が発生しました。当時の京都大学は全学連の中核的存在でした。翌1953年(昭和28年)11月11日には、京都大学の学生のデモ隊と警察官が鴨川にかかっている荒神橋でもみ合い、学生15名が浅瀬に落下、うち7名が頭蓋骨折を含む重軽傷を負うという「荒神橋事件」が発生、「川端警察署に抗議に行こう。」とか、全学スト決行など、田舎育ちのノンポリ(英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。)の私は右往左往するばかりでした。佐賀へ帰省すると京都大学に行った学生は赤くなっているから(共産党の思想に染まっているの意)付き合わないようにとのお触れが回っていました。
先祖のお墓のある諫早市の郊外の当時の国鉄長崎線の線路のそばを歩いていたら、「何をしている。」と警察官に職務質問されました。大学生が破壊活動を企んでいるのかと疑われた訳です。寄留先の地主の伯父の名前を言って無事放免されました。
 就職試験では、「内灘事件(1952年アメリカ軍の砲弾の試射場が必要となり石川県内灘砂丘に決定された。これに対する反対闘争)をどう思いますか」と質問されました。
 住友銀行に入行して大阪の支店に配属され、3年後の1960年(昭和35年)5月東京勤務になりました。赴任直後の6月11日に東京大学の学生樺美智子さんが、デモが衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡されました。渋谷の近くの南平台の岸総理大臣の自宅のあたりは「岸を倒せ」のデモ隊で埋まり、東京は政治の中心だと痛感しました。
 1969年4月28日の「沖縄デー」では松屋デパートの前の銀座支店にいました。その夜銀座4丁目の交番は焼き打ちされました。男子職員は店を守れと残っていました。支店の前では警官隊とデモ隊が対峙し、あわや市街戦となる寸前にデモ隊が逃げてしまって、支店は無事でした。
 1984年(昭和39年)8月30日のお昼、当時亀戸支店長だった私は、お得意様の宮地鉄工所の副社長と、皇居前のパレスホテルの最上階のレストランで食事をしていました。丸の内方面のビルに真っ白な煙が立ち昇り、すぐに地上を多数の消防車や救急車が走り始めました。そこへ「社長が三菱重工業前で重傷を負い、日比谷病院へ運ばれました。」との連絡がありました。副社長に支店長車をお貸しして、日比谷病院に急行して頂き、重傷の社長をかかりつけの関東逓信病院に移し、一命を取り止めることが出来ました。
 学生時代、銀行勤務時代共に、政治闘争は身近で、その時々自分は如何に身を処すべきか考えさせられました。
 話は変わりますが、1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎氏の長女・美智子様を皇太子妃に迎えることを可決したと発表しました。1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業されていた美智子様は、その年の夏、皇太子様と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子様は美智子様のお人柄に惹かれて自らお妃候補にと言及されたと報道されました。銀行入行2年目、同年代の者としては、時代の変化について強く感ずるものがありました。
 私事で恐縮ですが、私の銀行時代の上司の奥様が美智子様の聖心女子大学時代のクラスご担当であった英国児童文学ご専門の猪熊葉子教授、私の家内の従姉妹が美智子様と同クラスだったので、美智子様のことをお聞きする機会が色々ありましたが、誠に良くお出来になったお嬢様だったとの感を強くしています。また美智子様ご成婚後の皇室に対する態度などを拝するにつけ、ご実家の正田家も大変立派なお家だとつくづく思います。
 最近、戦後70年に当たり,戦争によって亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,また我が国とパラオ国との友好親善関係に鑑み,天皇皇后両陛下がパラオ同国を御訪問になりました。4月8日はコロール島 、ここは第一次世界大戦後南洋諸島が日本への委任統治領になった時期南洋庁が置かれていました。4月9日は ペリリュー島、ここでも第二次世界大戦で日本軍は玉砕しています。熱帯の地をご高齢の両陛下がわざわざご訪問になるについて、そのお気持ちが強く私の感動を誘います。東日本大震災の被災地ご訪問といい、比較しては不敬にあたるとは重々思いますが、わが身に比べ何とご立派なことかと思います。
 前回も書きましたが戦後70年、何が問題だったのか、今後如何にあるべきか。自分の人生も含めて改めて回顧・反省すべきだと痛感しています。