城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」

2015年4月12日日曜日 | ラベル: |

 3月15日(日)のブログに、『住友銀行の旧同僚の方から「南国忌」に誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。』と書きました。今日はその後日談です
 彼と「一度お昼ご飯でもご一緒しましょう。」ということになり、3月30日(月)お茶の水の行きつけのフレンチでお昼を食べ、お花見に行って来ました。
 先ず、靖国神社に行って、靖国神社境内にある、気象庁が東京の桜の開花宣言をする際の基準木を見た後、「遊就館」へ行きました。
 彼は大分県の臼杵のご出身なので、「遊就館」に展示されている臼杵出身の彫刻家日名子実三さんの兵士像、大友宗麟の臼杵城の青銅砲を見て感激している内に、1945年(昭和20年)8月15日午後5時過ぎ(戦争終結の玉音放送の後)沖縄へ特攻出撃された宇佐の第五航空艦隊長官宇垣纏中将の搭乗機を操縦して亡くなった中津留達雄大尉の機上写真が展示されているところで、大きな感動を受けられたご様子でした。「どうしたのですか。」とお聞きしますと、「臼杵で特定郵便局長をしていた、私の父は中津留達雄大尉ご遺族の相談相手だったのです。遺児の鈴子さん(後述)の結婚の際、父は頼まれ仲人をしました。」と申され、城山三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)を是非読んで下さいと言わましたので、早速求めて読みました。

 1944年(昭和19年)10月25日、関行男中佐(二階級特進)の率いる神風特別攻撃隊・敷島隊がフィリピンのレイテ島沖で体当たりの攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈しました。神風特別攻撃隊の第一陣です。私は当時国民学校(現在の小学校)5年生でした。敷島隊のことが大々的に報道された時、子供心にも「何というむごいことだ。」と思いました。その後特別攻撃隊出撃のニュース映画を学校から見にいった時、出撃前に挙手の敬礼をされている特別攻撃隊の方々のお顔を見るのが辛かったことを今も鮮明に覚えています。しかし、当時そういった感想を述べると「非国民」と言われましたので心の中にしまい込んでいました。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」によれば、関行男中佐と中津留達雄大尉は昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した同期生(第70期)です。
 関中佐は特別攻隊第1号で、中津留大尉は最後の特攻を企図した第五航空艦隊長官宇垣纏中将が搭乗した「彗星」を操縦された訳です。最初の特攻隊長・関行男大尉(当時)に対して、中津留大尉は最後の特攻隊長と言われています。
 「指揮官たちの特攻」にはお二人の比較が書かれていて大変興味深いのですが割愛します。
 中津留大尉は大正11年1月大分県の津久見町で生まれ、臼杵中学から海軍兵学校に入学されました。昭和19年1月宇佐航空隊付教官になり、3ヶ月後結婚されています。その後美保基地を経て、当時の最新鋭機「彗星」1個中隊を率いて大分基地へ行かれました。その際上司の計らいで、お七夜に津久見で初めて娘の鈴子さんに1回限りの父子対面、その3週間後に死亡(戦後死)されています。享年23歳でした。
 
 1945年(昭和20年)8月15日第五航空艦隊長官宇垣纏中将は中津留大尉を呼び、戦争終結を告げず特攻出撃を命じました。午後5時過ぎ中津留大尉率いる彗星11機は出撃しました。指揮官機には宇垣纏中将が乗り込んでいました。宇垣纏中将は山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。その夜、中津留機他一機が沖縄・伊平屋島(いへやじま)に突入したことは確実です。8月15日の夜、米軍キャンプでは明々と電灯をつけ勝利を祝うビア・パーテイ中でした。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」では中津留大尉の最後の状況を以下のように推測しています。
 「敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中津留は疑問を感じ、その結果戦争が終わったことを知る。(中略)そのとき、天地の暗闇の中でただ1ヶ所,煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命じる。
 もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前左へ旋回する。突入を知らせる長音符が普通より長かったという司令部通信室の証言がそれを裏付ける。
 編隊での高等飛行で中津留に鍛えあげられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間的に読みとり、もはや方向を変える余裕もないまま、機を引き起こしキャンプの先へ ╍╍ というのが。現地に立っての私の推理である。
 (中略)
 断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。
 騙し打ちにはじまり、騙し打ちに終わる日本は世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。
 中津留大尉は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突し、続く部下機は基地を越えて水田に自爆したと見られています。

 住友銀行の旧同僚の方からは、彼の旧住友銀行のOB会会誌への寄稿『中津留大尉の遺徳を偲ぶ ー 日本の名誉を守った救国の青年将校』、雑誌に掲載された遺児中津留鈴子さんの手記『「指揮官たちの特攻」で父に会えた。』、城山三郎氏の対談『中津留大尉の決断』なども送って頂き、全部を読み終わって、改めて深く々々感動しました。
 私は幼い日、神風特別攻撃隊の報道について子供心に感じたことを改めて思い浮かべました。戦争は非人間的だと言われます。然し、第二次世界大戦の末期の特別攻撃隊、或いは人間爆弾「桜花」人間魚雷「回天」などの特攻兵器で、有為の若人達を死地に追いやった当時の軍の上層部の考えは、生還の望みの全くない攻撃を部下に命令したもので、個人の人格を全く無視したものであり、戦争の非人間性とは異なったむごいことです。それで、軍国少年だった幼い私は違和感を感じたのだろうと思います。

 宇垣纏中将は、敗戦時の8月15日に自決された阿南惟幾陸軍大臣のように一人で自決されるべきだったと私は思います。有為な若者を道連れにするべきではなかったと私は確信します。ただ、その結果中津留大尉は日本の名誉を守った救国の青年将校となられた訳です。
 2013年10月1日のブログに書きました「無言館」の戦没画学生の絵画のこと、2013年10月10日のブログに書きました窪島誠一郎様のご著書「夜の歌」の作曲家尾崎宗吉氏の物語、何れも第二次世界大戦が奪った若き才能の物語です。
 戦後70年、第二次世界大戦の記憶は薄れる一方です。何が問題だったのか、私たちは改めて回顧すべきだと痛感します。


○千鳥ヶ淵の桜
 遊就館見学の後、千鳥ヶ淵の満開の桜を見て帰りました。今回のお花見は嘗て無い強いインパクトを受けたお花見になりました。