「リスクとキャッシュフロー」について⑭

2013年12月10日火曜日 | ラベル: |

8.事故とキャッシュフロー悪化の事例 

(1)アイシン精機

 私が企業に起こった事故とキャッシュフロー悪化のリスクの重要性を最初に実感したのは、平成9年(1997年)2月1日に起きたアイシン精機刈谷第一工場の火災事故についての財務面からの分析でした。アイシン精機の火災により、プロポーショニング・バルブという、自動車のブレーキの重要な部品の供給がストップし、トヨタは3日間にわたり操業を停止の止む無きに至り、他の供給先の自動車メーカーにも大きな影響を与えました。
 アイシン精機は代替生産体制を確立するなど予想外に早く復旧し、4月末にはすべての内製化を完了し、トヨタグループの事故に対する対応力の強さを示した好事例だと評価されています。然し、この事故の財務的なインパクトを分析した議論は当時皆無だったと思います。

① 業績
○損益計算書                      (単位百万円)
   平成 7 年度実績
( 事故前期 )
    平成 8 年度実績
( 事故期 )
平成9度実績
(事故翌期)
( 7 4.1 - 8.3.31) (8.4.1-9.3.31) 前期比 (94.1 - 10.3.31)
 売上高
477,129
519,073
41,944
521,417
売上総利益
( 同上率 )
49,243
  ( 10.3% )
54,992
(10.6%)
5,749
(0.3%)
46,909
( 9.0% )
営業利益
 (同上率)
13,127
( 2.8% )
16,508
( 3.2% )
3,381
(0.4%)
7,283
( 1.4 %)
 経常利益
(同上率)
15,331
( 3.2 %)
18,751
( 3.6% )
3,420
(0.4%)
10,523
( 2.0% )
特別損失
 ―
7,803
7,803
  -
当期純利益
 (同上率)
8,031
 ( 1.7% )
5,807
( 1.1% )
△ 2,224
(△ 0.6% )
10,523
( 2.0% )
 月  商
39,761
43,256
3,495
43,451
事故期の売上は前期比7.9%増、経常利益は前期比22.3%の大幅増益で、事故の損失78億3百万円負担後でも58億7百万円の利益を計上しています。事故は起こったが業績自体は順調だったという形になっています。

 2.キヤッシュフロー実績  
                             (単位 百万円)
  科  目
平成7年度実績
 (事故前期)
平成8年度実績
 (事故期)
平成9年度実績
 (事故翌期)
現預金及び一時保有の有価証券
 
46,272
31,568
17.634
 
営業活動によるキャッシュ・フロー

19,908
11,847
17,524
投資活動によるキヤッシュフロー
△ 42,632
△ 34,406
△ 28,203
事業のキヤシュフロー
•  22,724
•  22,559
△ 10,679
財務活動によるキヤッシュフロー
8,020
8,625
23,560
当期総合キヤッシュフロー
△  14,704
△  13,934
12,881
 
現金及び現金同等物の期末残高
31,568
17,634
30,515
同上 月商比
0.8 ヶ月
0.4 ヶ月
0.7 ヶ月
アイシン精機の事故期の業績は増収・増益なのに、営業活動によるキャッシュフローは前期比80億6100万円(事故前期比40.5%減)マイナスと大幅に悪化しいます。私は業績が順調だったのにキャッシュフローが悪化したのは何故だろうかと思いました。
 このブログの2011年9月1日に「推理小説とリスクマネジメント」と題して「企業を分析する場合、恰も探偵が色々な手掛かり・情報を基に真相に辿りつくのと同じような論理力(思考能力)・構成力・イマジネーションが必要です。さらに論理的な推論を加えることも必要となります。」と書きました。
 当時の有価証券報告書の開示内容は、単体中心でしたが非常に詳細でした。以下は有価証券報告書のデータに基づく分析の結果です。

○比較貸借対照表 (1)                   (単位 百万円)
  科    目
事故前期
事故期
前期末比増減
事故期翌期
 
流動
 
資産
現金・預金
16,441
12,141

△4,300
 
13,,505
 受取手形
3,149
3,271
122
2,969
売掛金
94,199
106,066
11,867
104,619
有価証券
15,126
5,492

△9,634
 
1 7 ,010
 棚卸資産
12,443
14,916
2,473
16,439
 その他
3,382
7,300
3,918
6,177
流動資産 計
144,740
149,186
4,446
160,719
固定資産
有形固定資産
137,505
139,710

2,205
 
147,402
投資等
125,333
134,066
8,733
134,529
その他
645
189

△456
 
319
固定資産 計
263,483
273,965
10,482
282,250
 合  計
408,223
423,152
14,929
442,970

○比較貸借対照表 (2)                   (単位 百万円)
  科    目
事故前期
事故期
前期末比増減
事故期翌期
 
流動
負債
 支払手形
2,811
3,137
326
3,035
 買掛金
59,807
70,072
10,265
65,048
1年以内償還の転換社債
610
14,873
14,263
   ―
その他
58,093
58,146
53
55,010
流動負債 計
121,321
146,228
24,907
123,093
固定
負債
 社債
   ―
   ―
   ―
25,000
転換社債
46,120
29,138
 
△16,982
 
29,117
 その他
23,704
25,420
1,716
27,620
固定負債 計
69,824
54,558
 
△15,266
 
81,737
  資  本
217,077
222,364
5,287
238,139
 合  計
408,223
423,152
14,929
442,970

 貸借対照表の各勘定科目の増減を見ると、上記のように売掛金が事故前期末比118億6700万円、買掛金が事故前期末比102億6500万円増加していました。共に売上の伸び率以上に大幅に増加しています。通常売掛金の異常な増加は期末近くに大きな売上を計上した場合に生じます。買掛金の異常な増加は期末近くに大きな金額の仕入れをした場合に発生します。そこで相手先別の売掛金の増減を調べてみるとトヨタへの売掛金が前期末比69億1400万円増加しています。古い銀行員としては、この分析結果から、アイシン精機は「売上高・利益のアップを図るため、期末近くにトヨタ向けを中心に売上増加を図った」のではないかと推理しました。買掛金の増加の内訳は判然としていませんが、多分事故対策結果だと思われます。
 何故こうしたことをする必要があったのだろうかと調べて見ると、事故翌期末に償還期限の来る転換社債148億7300万円があることが判明しました。転換社債というのは、一定の価格で株式に転換できる権利の付いた社債です。社債発行時に転換価格が決まっています。株価が転換価格を上回っていたら株式に転換した方が利益になりますから、社債権者は株式に転換します。そうなると社債を償還しなくて済みますからキャッシュフロー上はプラスになります。事故発生前日の株価は1,850円、事故翌日の株価は1,770円となり、事故直後同社株はストップ安になるまで叩き売られました。社債の転換価格は1,650円でした。事故発生の結果同社の業績に不安が生じ、株価が転換価格以下に低落すれば、翌期には社債を約149億円償還しなければならなくなります。
 アイシン精機は生産復旧の早期化を行う一方、事故期の売上高、利益の更なる増大を図って、株価の低落を防ぎ、転換社債の転換を維持するという財務戦略を立て、2月1日の火災発生以降、期末までに対策を講じたのではないかというのが私の推論です。
 平成18年3月に経済産業省から公表された「リスクファイナンス研究会報告書」は「リスクファイナンスとは、‹企業が行う事業活動に必然的に付随するリスクについて、これらが顕在化した際の企業経営へのネガティブインパクトを緩和・抑止する財務的手法≻である。すなわち、事業活動に対して適切な財務手当てができていない場合には、当該事業活動に係るリスクの顕在化により、財務基盤が毀損(中略)される可能性がある。したがって、企業の持続性や競争力を高める上で、リスクファイナンスを含めた戦略的な企業財務が果たす役割は非常に重要である。」 といっています。
 当時私は、アイシン精機はそこまでやるのかとやや批判的に見ていました。しかし雪印乳業や東京電力の事故後の事態の推移と比べると、「リスクファイナンス研究会報告書」の出る9年も前にこうした戦略的なリスクファイナンスの取り組みを行っていたことは高く評価されるべきことだと思うようになりました。
 事故期末の平成9年3月31日の現・預金残高は前年同日比43億円減の121億4100万円、一時保有の有価証券も前年同日比85億3500万円減少し、手元資金合計では前年同日比139億3400万円の大幅減になっています。
 事故翌期の中間決算期末平成9年9月30日の現・預金残高は前年同日比96億3400万円減の53億900万円、一時保有の有価証券も前年同日比85億3500万円減少し、合計では前年同日比173億2500万円の大幅減になっています。
 平成9年3月31日に比べれば手元資金は6ヶ月で82億3百万円の減です。現金・預金残高は、3月末比6,832百万円、前年同期比8,789百万円減の5,309百万円の低水準になっています。
事故翌期の中間決算時にもなお現・預金、一時保有の有価証券残高が大幅に減少したのは、事故のキャシュフローへの影響が翌期半ばまで尾を引いたからだと考えられます。

○手元資金残高推移              (単位 百万円)
 
 日
現・預金
一時保有の
有価証券
 合  計
 金  額
前年同日比
 8.3.31
16,441
15,126
31,568
8.9.30
14,098
12,657
26,756
△10,261
9.3.31
12,141
5,492
17,634
△13,934
9.9.30
5,309
4,122
 9,431
△17,325
10.3.31
13,505
17,010
30,515
12,881

 アイシン精機は業績面では問題が無い状態にあったとしても、(私は若干の違和感を持っていますが)工場の火災がキャッシュフローに与える影響は事故翌期の前半にまで及び、手元資金残高への影響は年間173億2500万円に達したと言えます。確認できていませんがアイシン精機におけるプロポーショニング・バルブの売上比率は数%(多分5%未満)だったと思われます。その製造工場の火災事故がこれだけ大きなキャッシュフローへのインパクトを発生させたわけです。「キャッシュフローは正直なもの」です。
 アイシン精機は手元現・預金減と有価証券の売却でキャッシュフローの不足を賄い、金融機関に融資を依頼する必要は無かったのですから、キャッシュフローが危機だったとはいえません。世間では、同社のキャッシュフローのことなど当時は全く問題にもしていませんでした。
 私はこの分析を通して、事故・自然災害発生時の企業のキャシュフロー対策の重要性を痛感し、これが今の私の主張の原点になっています。
 半期ごとのキャッシュフローの分析の詳細は次回にご紹介致します。