「リスクが発生し顕在化し経済的損失が発生した場合に備えて、企業が運転資金、事故対策資金、復旧資金等を事前に手当てしておくこと、すなわちリスクファイナンスの重要性については未だ十分に認識されていない。*1」
「リスクファイナンスとは、〈企業が行う事業活動に必然的に付随するリスクについて、これらが顕在化した際の企業経営へのネガティブインパクトを緩和・抑止する財務的手法〉である。すなわち、事業活動に対して適切な財務手当てが出来ていない場合には、当該事業活動に係るリスクの顕在化により、財務基盤が毀損される可能性がある。したがって、企業の持続性や競争力を高める上で、リスクファイナンスを含めた戦略的な企業財務が果たす役割は非常に重要である。」
*1 経済産業省 リスクファイナンス研究会報告書(平成18年3月)
http://www.meti.go.jp/report/data/g60630aj.html
私がキャッシュフロー・リスクの重要性を最初に実感したのは、平成9年(1997年)2月1日に起きたアイシン精機刈谷第一工場の火災事故の分析でした。この火災により、プロポーショニングバルブという、自動車のブレーキの重要な部品の供給が全面的にストップし、トヨタは3日間にわたりやむなく操業を停止し、他の取引自動車会社にも大きな影響を与えました。然し、同社は速やかに代替生産体制を確立するなど、復旧は予想外に早く、4月末には総ての内製化を完了し、トヨタ・グループの事後的な対応の強さを示した好事例だと評されました*2:。
*2 1997年予防時報 191 森宮康 部品工場の火災とリスクマネジメント
私は事故の財務的なインパクトを有価証券報告書のデータで分析しました。
1.業績
○損益計算書 (単位百万円)
平成 7 年度実績 ( 事故前期 ) | 平成 8 年度実績 ( 事故期 ) | 平成9度実績 (事故翌期) | ||
( 7 4.1 - 8.3.31) | (8.4.1-9.3.31) | 前期比 | (94.1 - 10.3.31) | |
売上高 | 477,129 | 519,073 | 41,944 | 521,417 |
売上総利益 ( 同上率 ) | 49,243 ( 10.3% ) | 54,992 (10.6%) | 5,749 (0.3%) | 46,909 ( 9.0% ) |
営業利益 (同上率) | 13,127 ( 2.8% ) | 16,508 ( 3.2% ) | 3,381 (0.4%) | 7,283 ( 1.4 %) |
経常利益 (同上率) | 15,331 ( 3.2 %) | 18,751 ( 3.6% ) | 3,420 (0.4%) | 10,523 ( 2.0% ) |
特別損失 | ― | 7,803 | 7,803 | △ 7,803 |
当期純利益 (同上率) | 8,031 ( 1.7% ) | 5,807 ( 1.1% ) | △ 2,224 (△ 0.6% ) | 10,523 ( 2.0% ) |
月 商 | 39,761 | 43,256 | 3,495 | 43,451 |
事故期の売上は前期比7.9%増、経常利益は前期比22.3%の大幅増益で、事故の損失78億3百万円負担後でも58億7百万円の利益を計上しています。事故は起こったが業績自体は順調だったということです。
事故翌期は、売上総利益、営業利益、経常利益の各段階で金額・利益率ともに落ちています。代替生産体制確立等の事故処理対策に費用が掛ったためかと思われますが詳細は判りません。然し事故の特別損失が無いため、当期純利益は金額・利益率ともに事故期を大きく上回っています。
2.キヤッシュフロー実績
(単位 百万円)
科 目 | 平成7年度実績 (事故前期) | 平成8年度実績 (事故期) | 平成9年度実績 (事故翌期) |
現預金及び一時保有の有価証券 | 46,272 | 31,568 | 17.634 |
営業活動によるキャッシュ・フロー | 19,908 | 11,847 | 17,524 |
投資活動によるキヤッシュフロー | △ 42,632 | △ 34,406 | △ 28,203 |
事業のキヤシュフロー | △ 22,724 | △ 22,559 | △ 10,679 |
財務活動によるキヤッシュフロー | 8,020 | 8,625 | 23,560 |
当期総合キヤッシュフロー | △ 14,704 | △ 13,934 | 12,881 |
現金及び現金同等物の期末残高 | 31,568 | 17,634 | 30,515 |
同上 月商比 | 0.8 ヶ月 | 0.4 ヶ月 | 0.7 ヶ月 |
アイシン精機の事故期の業績は増収・増益だったのですが、営業活動によるキャッシュフローは前期比80億6,100万円(事故前期比40.15%減)の大幅な悪化になっています。業績は順調なのに何故こうなったのだろうかと思いました。
私は本来公表の数字で分析をすることを基本にしているのですが、この点については推理をしてみることにしました。*3
*3 ブログ・9月1日「推理小説とリスクマネジメント」参照
念のため貸借対照表の各勘定科目の増減を見たところ、売掛金が前期末比11,867百万円、買掛金が前期末比10,265百万円増加していました。共に売上の伸び率以上に大幅に増加しています。通常売掛金の異常な増加は期末近くに大きな売上を計上した場合に生じます。買掛金の異常な増加は期末近くに大きな金額の仕入れをした場合に発生します。そこで相手先別の売掛金の増減を調べてみるとトヨタへの売掛金が前期末比6,914百万円増加していました(当時の有価証券報告書の開示内容は非常に詳細でした)。
事故期末の売上増は売掛金の増加となり事故期中にはキャッシュになりません。一方事故対策費用は期中に発生するので、事故期のキャッシュフローが悪化したものと考えられます。
さらに、事故翌期、通期では営業活動のキャッシュフローは事故期比5,677百万円改善していますが、事故翌期の中間決算期末9月30日の現・預金残高は前期末比6,832百万円減の5,309百万円、一時保有の有価証券も前期末比1,371百万円減少して合計では前期末比8,203百万円の大幅減になりました。
前年同日比では、現・預金残高は8,789百万円減、一時保有の有価証券も前年同日比8,535百万円減少して、合計では前年同日比17,325百万円の大幅減になっています。
アイシン精機は業績面では問題が無い状態であったとしても、工場の火災がキャッシュフローに与えた影響は事故翌期の前半まで及び、その影響は82億円〜173億円に達したと言えます。
確認出来ていませんがアイシン精機におけるプロポーショニングバルブの売上比率は数%(多分5%未満)だったと思われます。その事故がこれだけ大きなキャッシュフローへのインパクトを発生させた訳です。
アイシン精機は手元現・預金減と有価証券の売却でキャッシュフローの不足を賄い、金
融機関に融資を依頼する必要は無かったのですから、キャッシュフローの危機だったとは言えません。世間では同社のキャッシュフローのことなど当時全く問題にしていませんでした。
○資金残高推移 (単位 百万円)
日 | 現・預金 | 一時保有の 有価証券 | 合 計 | |
金 額 | 前年同日比 | |||
8.3.31 | 16,441 | 15,126 | 31,568 | ― |
8.9.30 | 14,098 | 12,657 | 26,756 | △10,261 |
9.3.31 | 12,141 | 5,49 3 | 17,634 | △13,934 |
9.9.30 | 5,309 | 4,122 | 9,431 | △17,325 |
10.3.31 | 13,505 | 17,010 | 30,515 | 12,881 |
古い銀行員の分析・推理の結果からは、アイシン精機は「事故期の売上高・利益のアップを図るため、期末近くにトヨタ向けを中心にかなりの売上増を図った」のだろうということになります。何故こうしたことをする必要があったのかを考えて見ることにしました。
その結果は、事故翌期末に償還期限の来る転換社債147億8,300万円があったことが判明ました。事故の結果業績が大幅に低下すれば、株価が低落します。その結果事故翌期に転換社債の転換が順調になされなければ、キャッシュフローに大きく影響します。それを防ぐために、戦略的な財務対策を立てて実行したのではないかと推察されるに至りました。詳細は次回に申し述べますが、私の推理では、アイシン精機は平成18年の経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書」公表の9年も前に既に「リスクファイナンスを含めた戦略的な企業財務」を実行していたのではないかと思われます。
私はこの推理・分析の結果を通して、事故・自然災害発生時におけるキャッシュフロー対策の重要性を痛感し、これが今の私の主張の原点になっています。