九段三丁目町会の防災訓練

2015年3月29日日曜日 | ラベル: |

 私が主宰する日本ナレッジマネジメント学会の第93回リスクマネジメント研究部会を3月25日に開催しました。講師は九段三丁目町会会長の細内進様です。
 『1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内の各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。(中略)翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ、今日も行われている。』と靖国神社百年史に記述されているというお話から始まりました。靖国神社も九段三丁目町会の町会員です。細内様は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時は小学校の低学年だっため、集団疎開に行かず九段に住んでいたため、靖国神社の塀のところから自宅が焼け落ちるのを見ておられたそうです。東京大空襲のご記憶のある数少ない方です。
  2014年5月1日のブログに書きました東京都の「地域危険度一覧表」を見ますと千代田区九段南は、建物倒壊危険度・火災危険度・総合危険度いずれも最も安全な(1)ランクの地区です。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/1chiyoda.htm
 2011年( 平成23年)3月11日東日本大震災当日、靖国神社の前の靖国通りは、
徒歩で帰宅する人で溢れました。この日も社地は一休みする人たちで一杯になりました。靖国神社は対応に苦慮されましたが、幸い人々はまた歩き出したので事なきを得た由です。
 細内様は昭和8年創業の老舗の洋菓子屋「ゴンドラ」の2代目です。デパート等には
出店せず、ご自分のお店だけで美味しいお菓子を作っておられます。1961年(昭和36年)スイス国立リッチモンド製菓学校をアジア人として初めて卒業、国際菓子コンクールの審査員もなさっています。岸朝子さんがご本で激賞しておれます。

 阪神淡路大震災の折、近所付き合いの良かった地区では、地震直後「誰々さんの姿が見えない。」ということで,近隣の方々が倒壊家屋に閉じ込められた方々を救出して、怪我の手当てをしたり、その後の火災による焼死を防止したというのは有名な話です。
東京大学の故廣井治脩先生が中心になって纏められた「1995年阪神・淡路大震災調査報告」35ページに廣井先生は「阪神・淡路大震災と住民の行動」という論文を寄せておられます。
 『今回の地震で痛感したのは、震度7の激震に遭遇すれば、警察や消防などの防災機関がどんなに努力しても限界があり、住民の一人一人が自分で自分の身を守らざるを得ない、ということであった。震災の被災地において、周囲の倒壊家屋の下から聞こえてくる「助けてくれー」という声に多くの人が必死になって瓦礫をを取り除いたとしばしば聞いた。また、一般家庭から出た火災を地域の人が必死に消火したと聞いている。(中略)地域住民の献身的な活動がなければ、人的被害はもっと大きくなっただろうし、火災の延焼ももっと拡大していたであろう。』と書いておられます。

 九段三丁目地区も従来からの住民は近隣の付き合いが濃密なのですが、相続税対策などでお屋敷が売られ、高層マンションになるとそこの住民はあまり近所付き合いをされないというのが町会長さんの悩みの種です。折角の災害対策の備蓄品や、特に九段地区は上水道の地下備蓄タンクまであるのですが、それが利用出来ない訳です。「町会の行事にお誘いして、なるべく付き合いをして頂くようにしてはいるのですが。」ということでした。
 細内様が苦労しておられる。町内会の防災活動は、来るべき首都直下地震に対応する極めて大事な活動だと痛感します。
 地震発生時の避難所は原則公立の学校です。2011年(平成23年)3月11日14時46分東日本大震災発生時、避難所の九段小学校はまだ授業中で校門は閉まったままでした。また九段小学校は九段の高台から坂を下ったところにあり、通常は高いところにに避難するものなので、町会長としては如何なものかと思っていたところ、靖国神社に隣接した高台にある、三輪田学園から百年記念館の2F・3Fを避難所に提供します。」という申し出がありました。区は私立学校だからと言って首を縦に振りません。永年の折衝のあげく、一時避難所として認めて貰うことになりました。九段三丁目町会と三輪田学園との「災害時における一時避難所に関する協定書」で「協力期間は原則3日間(これが行政の建前です)以内とする。ただし協議の上延長することが出来る。」ということで解決したという苦心談をお聞きしました。
 私事で恐縮ですが三輪田学園(旧三輪田高等女学校)は私の母の母校です。過日大正10年3月卒業の母の日本画の宿題の何枚かを捨てるに忍びず「差し上げたい。」と三輪田学園に申し出たところ,三輪田理事長様が受け取って下さいました。その際母の卒業アルバムのコピーを頂きました。平岡家に嫁がれた三島由紀夫様のご母堂、橋倭文重様や「坂の上の雲」の秋山真之のお兄様で我が国の騎兵隊の創設者である秋山好古将軍のお嬢様などが母のクラスで並んで写っていて、子供としては感動しました。
 その際、三輪田理事長から「プールの水を利用して下水のマンホールの上に簡易トイレを設置する予定です。また地震発生時には、京浜地区の最寄りの私立学校同志で学生の避難を受け入れる協定をしています。」等のお話をお聞きし、先の九段三丁目町会との「一時避難所に関する協定書」の件といい、防災に大変理解のある学校だと思いました。
 千代田区のホームページに「成26年3月10日(月曜日)に九段三丁目町会の防災訓練が行われました」という記事が掲載されています。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/fujimi/shinchaku/h260310.html
 「これは災害時の一時避難場所として、三輪田学園が百年記念館小講堂を開放していただけることになったことを踏まえて、行われた訓練です。会場の内外で、応急時の三角巾の使用訓練、スタンドパイプ取扱訓練、初期消火訓練などに、80名の参加者が熱心に取り組みました。(以下略)」
 草の根の防災対策熱心に取り組んでおられる細内様のご努力に深く敬意を表したいと思います

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「阪神淡路大震災の回顧」(5) 「阪神大震災その時企業は」

2015年3月15日日曜日 | ラベル: |

 旧住友銀行の同僚の方から「私がボランティアで手伝っている<南国忌>にいらっしゃいませんか」と誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。
 <南国忌>は直木賞に名を残す作家直木三十五の命日である2月24日前後の休日に、直木三十五を偲んで彼のお墓のある長昌寺で行われる会合です。私は直木三十五の代表作で、<南国忌>の名前の謂れである「南国太平記」は父の書架にあったものを高校時代に読みました。当日は法要と募参の後、元文藝春秋常務取締役の竹内修司様から、直木賞を受賞した井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」誕生の秘話を含む「実録・ジョン万次郎漂流記」という講演をお聞きしました。竹内様のお話によると、
 ジョン万次郎は土佐国中濱村の漁師の子で、貧乏で読み書きも殆ど出来なかった人物です。1841年(天保12年)出漁中に嵐にあって伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、143日後奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は頭の良さを船長に気に入られ、船長と一緒に暮らし、アメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は捕鯨船の副船長にまでなりました。1850年(嘉永3年)に帰国を決意し、ハワイにいた嘗ての漁師仲間と共に1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸します。その後の詳しいいきさつは省略しますが、1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎を幕府に召聘し、直参の旗本の身分を与えました。土佐の貧しい漁師の子のアメリカから得て来た知識が、開国という大変な時期に幕府ひいては日本の国に大いに貢献したという大変刺激的なお話でした。色々な会合には出てみるものだと思いました。
 お隣に座っていた方から送って頂いた<南国忌>の写真を許可を得て掲載致します。

〇直木三十五の墓所の掲示

〇墓参

〇元文藝春秋常務取締役の竹内修司様の講演

 その方は天文学に詳しく、英文学者で戦前・戦後に天文学の普及・啓蒙に努められた野尻抱影氏の話題になりました。「今日竹内様が井伏氏の直木賞受賞選考の経緯でお話された作家の大佛次郎氏の本名は野尻清彦で、野尻抱影氏の弟さんです。」と申し上げました。「野尻清彦さんは私の父の旧制第一高等学校のクラスメイトなので、そのことを父から聞いていました。」などとその方と話が弾み、楽しい午後になりました。
 閑話休題、本来のテーマに戻ります。

「阪神淡路大震災の回顧」(5) 
「阪神大震災その時企業は」

 1995年(平成7年)4月阪神淡路大震災の直後に出版された、日本経済新聞社の『阪神大震災 その時企業は 徹底検証 危機管理』と言う本があります。

1.流通大手の決断
 この本の12ページ以下は当時のダイエー中内功会長兼社長の話です。
 東京・田園調布にあった中内社長の自宅に阪神淡路大震災による店舗の被害状況の第一報が入ったのは、地震発生後35分後の6時20分でした。午前8時、中内社長は東京・芝のダイエー本社で地震対策本部会議を開催、被災地の店舗の営業再開を指示、関連会社の「ローソン」にもその方針が伝えられました。1月17日(火)はダイエーの多くの店舗は定休日でしたが、兵庫県内47店舗中25店が地震当日営業しました。ローソンは18日時点で273店舗中194店が営業にこぎつけました。
 「ダイエーはなぜこれだけ素早く動けたのか ―― 中内氏が創業者の実力社長であり、様々な決断を合議ではなく一人で次々に下していけたことがその背景にある。」と同書は記述しています。地震当日中内氏は地震対策本部には会議の冒頭に顔を出しただけで、自室にこもり、対策本部からの被害状況の報告に対してトップダウンで自らの決断を下しました。
 昨年12月9日(火)のブログの記事「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で、『ISO22301の「5.1 リーダーシップ及びコミットメント」では、先ず「トップマネジメントにある者は,BCMS に関してリーダーシップを実証しなければならない。」とされています。このISO22301で想定しているマネジメントスタイルは、欧米、特に米英豪型のものであり、その観点からは当然の内容ですが、わが国の企業に持ち込む場合、これを実行することは容易なことでは無いと思われます。』(中略)『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し、欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ここで要求されていることは実行出来ないと思われます。』と書きました。阪神淡路大震災の時の中内社長はまさにISO2230が要求している通りのことを実行された訳で高く評価されるべきだと私は思います。
 

4.生産ライン確保に走るメーカー
 この本の25ページ以下はトヨタの話です。『阪神淡路大震災発生当日、トヨタの豊田達郎社長と5人の副社長は東京にいました。首脳陣は「対策本部」の設置を決める一方、生産担当である大西服副社長は豊田本社へトンボ帰りをする。この時点で工場稼働を含め、生産に関することは大西副社長に決定権が委ねられた。17日正午から午後2時までの間に生産部門からの応援部隊の第一陣が現地へ向けて出発、』と記述されています。
 トヨタも「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で要求されていることを実行しています。
 私は、平成17年6月から中小企業庁「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議メンバーになりました。作業の一環として、その年の8月に受託の三菱総合研究所の方々とご一緒に神戸に行き、阪神淡路大震災の時の中小企業の状況のヒャリングを行いました。
 何社かお伺いした中に、トヨタの孫請けの精密プレス加工の会社がありました。その企業の精密プレス加工は、トヨタにおける自動車生産の継続について必要不可欠の部分であるとトヨタは判断していたと思われます。阪神淡路大震災発生後、トヨタはその会社に応援要員をヘリコプターで送り込んで、精密プレス機械の調整・稼働の支援を行いました。プレス加工はガスが通じていなくても稼働出来ますが、電気と水は不可欠です。工場の高いところにあるタンクに水を補給するため、トヨタはポンプ付の給水車を回して来ました。何日か経つと、お弁当の中身に飽きたでしょうと、お昼のお弁当も豊田市から空輸されました。トヨタからの派遣要員は、その会社の方々が食事を済ませた後にお弁当を食べていたそうです。
 「こちらから応援を頼んだわけではなかったのです。トヨタの仕事をしていて、本当に良かったと思います。」とその会社の会長さんがしみじみと仰っていました。
 事業継続計画は2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、非常時の際の準備が整っていた金融機関などが事件後速やかに事業を再開・継続したことから、喧しく叫ばれ始めたことです。1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時は災害復旧計画の時代でした。その時代にトヨタが生産工程に不可欠な部品の精密プレス加工の孫請けの会社を支援したというのは、驚くべきことだと私は思います。
 2007年(平成19年)7月16日 - リケンの柏崎工場が新潟県中越沖地震で被災し、その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止した際、トヨタの技術者が真っ先に支援のために駆けつけ、国内乗用車メーカー各社が追随しました。私は流石トヨタだと再度感銘しました。経営者のリーダーシップ、及びきめ細かな事業継続計画の好事例が1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時に既にありました。
 重ねて書きますが、今東北大震災の回顧が盛んです。それも重要なことですが、首都直下地震対策のためには、阪神淡路大震災の記録をもっともっと活用すべきだと私は思います。
 

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「阪神淡路大震災の回顧」(4) 

2015年3月1日日曜日 | ラベル: |

 2月13日から3日間、飛騨古川と高山へ行ってきました。親しい東京二期会の歌手大澤一彰さんが創作オペラ「天生(AMOU)」の主役をされるので、仲良しのご夫婦と2夫婦4人で飛騨へ行きました。飛騨古川は高山から3駅先です。泊まったのは大竹しのぶ主演の「ああ野麦峠」の舞台となった明治時代から続く「八ッ三館」という料亭旅館です。平成16年国登録有形文化財に指定されています。
http://www.823kan.com/
 飛騨古川では、一晩中雪が降り続きました。宿の窓からの景色です。
 

  八ッ三館の窓からの雪景色

 翌日、高山と夜はライトアップの白川郷へ行きました。飛騨には寒い時に行くべきですと、昔勤務した岐阜で言われましたが、その通りだと思いました。

雪の飛騨川です。

「困り果てたのはトイレだった」
 1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の後に出版された、時事通信社の『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』と言う本があります。阪神淡路大震災に遭遇した時事通信社の現地の方々の経験談です。今首都直下地震に備えて、色々なことが言われています。『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』の内容は今言われていることと大差はありありませんが、実体験に基づく記述ですので迫力があります。
 この本の46ページはトイレの話です。「困り果てたのはトイレだった」と言うのが標題です。「トイレ事情も悲惨だった。本山第二小では校庭の隅に穴を掘り、シートで覆ったサッカーゴールを置いて、応急のトイレを作った。穴が1杯になるたびに場所を変えるため、周囲には悪臭が漂う。清掃は全く出来ず衛生状態は最悪だった。(中略)神戸市は地震の2日後からトイレの設置を始めた。しかし、十分に数が確保出来ず、全避難所に設置するには、約2週間かかった。」と記述されています。
 私は、ご縁がりありまして2005年(平成17年)中小企業庁の「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議委員になり、その作業の一環として神戸市に阪神淡路大震災当時の状況のヒャリングに行きました。神戸市内の避難所になった小学校の近くの建設業者は「毎朝事務所の前が大小便だらけになり、洗い流すのが日課でした。」と言われました。避難所の小学校で大小便が出来ない避難者は、夜間に近くの路上で大小便をしていた訳です。阪神淡路大震災当時こういったトイレの状況、仮設トイレの問題は全く報道されませんでした。
 2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする「中越地震」、2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする「新潟県中越沖地震」においては、仮設トイレの供給が遅れたことが問題になりましたが、公の場で議論されたということは進歩だと思います。更に仮設トイレは洋式が少ないので、高齢者には辛いということも報道されました。
 神戸市の「阪神淡路大震災―神戸市の記録 1985年―」には、「避難所580ヶ所に避難民20万人を数え、仮設トイレは2100基~2200基あ必要と考えられた。」と記述されています。

 下表は同書による仮設トイレの設置状況です
  設置箇所数  設置台数 直営外収集台数✫
 1月  18日     7    79      ―
     20日   155   280     25
     21日   216   524     25
     31日   462  2,381     25
 2月  16日   546 *3,012     11
     28日   546  2,938     16
 3月  31日   451  2,214     13
 4月  30日   304  1,216      6
 5月  31日   237
750
     4
 6月  30日   186   491      3
 7月  31日   143
 392
     2
 8月  31日    97   220      2
*設置台数最大  ✫直近1週間の1日あたり平均台数

 神戸市の避難者は約20万人でした。『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』によれば、首都直下地震においては、避難者は最大720万人と言われています。36倍です。首都直下地震発生時に10万台以上の仮設トイレがすぐ集まるでしょうか。各人は自分でトイレ対策を樹てなければなりません。
 東日本大震災における避難所の最大の問題はトイレの問題だったという調査結果があります。「困り果てたのはトイレだった」は今も生きていると考えます。
 丁度この原稿を書いている時「日本トイレ研究所」から3月18日(水)に「災害用トイレ研究フォーラム」を開催するとのメールが来ました。参加しようと思います。

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