「阪神淡路大震災の回顧」(5) 「阪神大震災その時企業は」

2015年3月15日日曜日 | ラベル: |

 旧住友銀行の同僚の方から「私がボランティアで手伝っている<南国忌>にいらっしゃいませんか」と誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。
 <南国忌>は直木賞に名を残す作家直木三十五の命日である2月24日前後の休日に、直木三十五を偲んで彼のお墓のある長昌寺で行われる会合です。私は直木三十五の代表作で、<南国忌>の名前の謂れである「南国太平記」は父の書架にあったものを高校時代に読みました。当日は法要と募参の後、元文藝春秋常務取締役の竹内修司様から、直木賞を受賞した井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」誕生の秘話を含む「実録・ジョン万次郎漂流記」という講演をお聞きしました。竹内様のお話によると、
 ジョン万次郎は土佐国中濱村の漁師の子で、貧乏で読み書きも殆ど出来なかった人物です。1841年(天保12年)出漁中に嵐にあって伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、143日後奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は頭の良さを船長に気に入られ、船長と一緒に暮らし、アメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は捕鯨船の副船長にまでなりました。1850年(嘉永3年)に帰国を決意し、ハワイにいた嘗ての漁師仲間と共に1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸します。その後の詳しいいきさつは省略しますが、1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎を幕府に召聘し、直参の旗本の身分を与えました。土佐の貧しい漁師の子のアメリカから得て来た知識が、開国という大変な時期に幕府ひいては日本の国に大いに貢献したという大変刺激的なお話でした。色々な会合には出てみるものだと思いました。
 お隣に座っていた方から送って頂いた<南国忌>の写真を許可を得て掲載致します。

〇直木三十五の墓所の掲示

〇墓参

〇元文藝春秋常務取締役の竹内修司様の講演

 その方は天文学に詳しく、英文学者で戦前・戦後に天文学の普及・啓蒙に努められた野尻抱影氏の話題になりました。「今日竹内様が井伏氏の直木賞受賞選考の経緯でお話された作家の大佛次郎氏の本名は野尻清彦で、野尻抱影氏の弟さんです。」と申し上げました。「野尻清彦さんは私の父の旧制第一高等学校のクラスメイトなので、そのことを父から聞いていました。」などとその方と話が弾み、楽しい午後になりました。
 閑話休題、本来のテーマに戻ります。

「阪神淡路大震災の回顧」(5) 
「阪神大震災その時企業は」

 1995年(平成7年)4月阪神淡路大震災の直後に出版された、日本経済新聞社の『阪神大震災 その時企業は 徹底検証 危機管理』と言う本があります。

1.流通大手の決断
 この本の12ページ以下は当時のダイエー中内功会長兼社長の話です。
 東京・田園調布にあった中内社長の自宅に阪神淡路大震災による店舗の被害状況の第一報が入ったのは、地震発生後35分後の6時20分でした。午前8時、中内社長は東京・芝のダイエー本社で地震対策本部会議を開催、被災地の店舗の営業再開を指示、関連会社の「ローソン」にもその方針が伝えられました。1月17日(火)はダイエーの多くの店舗は定休日でしたが、兵庫県内47店舗中25店が地震当日営業しました。ローソンは18日時点で273店舗中194店が営業にこぎつけました。
 「ダイエーはなぜこれだけ素早く動けたのか ―― 中内氏が創業者の実力社長であり、様々な決断を合議ではなく一人で次々に下していけたことがその背景にある。」と同書は記述しています。地震当日中内氏は地震対策本部には会議の冒頭に顔を出しただけで、自室にこもり、対策本部からの被害状況の報告に対してトップダウンで自らの決断を下しました。
 昨年12月9日(火)のブログの記事「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で、『ISO22301の「5.1 リーダーシップ及びコミットメント」では、先ず「トップマネジメントにある者は,BCMS に関してリーダーシップを実証しなければならない。」とされています。このISO22301で想定しているマネジメントスタイルは、欧米、特に米英豪型のものであり、その観点からは当然の内容ですが、わが国の企業に持ち込む場合、これを実行することは容易なことでは無いと思われます。』(中略)『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し、欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ここで要求されていることは実行出来ないと思われます。』と書きました。阪神淡路大震災の時の中内社長はまさにISO2230が要求している通りのことを実行された訳で高く評価されるべきだと私は思います。
 

4.生産ライン確保に走るメーカー
 この本の25ページ以下はトヨタの話です。『阪神淡路大震災発生当日、トヨタの豊田達郎社長と5人の副社長は東京にいました。首脳陣は「対策本部」の設置を決める一方、生産担当である大西服副社長は豊田本社へトンボ帰りをする。この時点で工場稼働を含め、生産に関することは大西副社長に決定権が委ねられた。17日正午から午後2時までの間に生産部門からの応援部隊の第一陣が現地へ向けて出発、』と記述されています。
 トヨタも「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で要求されていることを実行しています。
 私は、平成17年6月から中小企業庁「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議メンバーになりました。作業の一環として、その年の8月に受託の三菱総合研究所の方々とご一緒に神戸に行き、阪神淡路大震災の時の中小企業の状況のヒャリングを行いました。
 何社かお伺いした中に、トヨタの孫請けの精密プレス加工の会社がありました。その企業の精密プレス加工は、トヨタにおける自動車生産の継続について必要不可欠の部分であるとトヨタは判断していたと思われます。阪神淡路大震災発生後、トヨタはその会社に応援要員をヘリコプターで送り込んで、精密プレス機械の調整・稼働の支援を行いました。プレス加工はガスが通じていなくても稼働出来ますが、電気と水は不可欠です。工場の高いところにあるタンクに水を補給するため、トヨタはポンプ付の給水車を回して来ました。何日か経つと、お弁当の中身に飽きたでしょうと、お昼のお弁当も豊田市から空輸されました。トヨタからの派遣要員は、その会社の方々が食事を済ませた後にお弁当を食べていたそうです。
 「こちらから応援を頼んだわけではなかったのです。トヨタの仕事をしていて、本当に良かったと思います。」とその会社の会長さんがしみじみと仰っていました。
 事業継続計画は2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、非常時の際の準備が整っていた金融機関などが事件後速やかに事業を再開・継続したことから、喧しく叫ばれ始めたことです。1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時は災害復旧計画の時代でした。その時代にトヨタが生産工程に不可欠な部品の精密プレス加工の孫請けの会社を支援したというのは、驚くべきことだと私は思います。
 2007年(平成19年)7月16日 - リケンの柏崎工場が新潟県中越沖地震で被災し、その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止した際、トヨタの技術者が真っ先に支援のために駆けつけ、国内乗用車メーカー各社が追随しました。私は流石トヨタだと再度感銘しました。経営者のリーダーシップ、及びきめ細かな事業継続計画の好事例が1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時に既にありました。
 重ねて書きますが、今東北大震災の回顧が盛んです。それも重要なことですが、首都直下地震対策のためには、阪神淡路大震災の記録をもっともっと活用すべきだと私は思います。