「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書(3) 〜 柳田邦男氏の意見 〜

2012年8月20日月曜日 | ラベル: |

 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書について、今回は柳田邦男氏のご意見の部分の感想です。8月4日の朝日新聞13面に柳田邦男氏のインタビュー「原発事故調査を終えて」が掲載さています。「被害者への想像力・事故対策から欠如、2.5人称の視点を。」に感銘しました。
 前回の畑村洋太郎委員長のご意見もそうですが、調査に当たる人の持つ強固な思想と信念が調査報告に生きていると思いました。

○高校野球の熱戦が行われている甲子園のあたりの風景です。

 甲子園の浜辺は海浜公園になっています。
白い砂浜の明るい住宅地です。

 8月4日の朝日新聞13面、柳田邦男氏のインタビュー「原発事故調査を終えて」の冒頭で柳田氏は
「原発事故の調査では、放射線量が高くて直接原子炉を調べられないばかりか、被害地域が広大で、しかも被害内容が健康、生活、職業、環境など多岐にわたります。短期間で全容を明らかにすることはとても無理で、立ちすくむ思いでした。」「原発事故による避難の混乱を象徴的に示す事例として搬送中や避難先の体育館などで患者数十人が亡くなった大熊町の双葉病院について調査しました。(中略)一人ひとりの悲劇の経緯を調べることで原発事故時の避難がいかに大変で、生死を分ける条件は何かが判り、住民の命を守る避難計画の必要条件が引き出せるのですが、それには時間もマンパワーも足りませんでした。」
 と言っておられます。

 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書の双葉病院に関する記述です。                       *下線は筆者
『福島県は3 月11 日に、知事を本部長とする福島県災害対策本部(以下「県災対本部」という。)を設置し、原発事故の対応に当たったが、県災対本部内外の連携等が十分ではなかったために、幾つかの問題が発生した。そのうちの一つが、避難区域内に取り残された双葉病院の入院患者等の避難・救出における対応である。
避難区域内に取り残された双葉病院の入院患者等の避難・救出に当たり(中略)
  1. 3 月13 日まで、いずれの班も避難区域内の入院患者を把握するのは自班の業務ではないかとの問題意識に欠け、かつ、互いに確認することもしなかった。
  2. 県災対本部は、双葉病院の入院患者の多くが寝たきり状態にあるとの情報を得ていながら、その情報を県災対本部内で共有せず、そのため、同月14 日の搬送において、寝たきり患者の輸送には適さない乗換えが必要となる車両手配をした。
  3. 県災対本部とは別に、県の保健福祉部・障がい福祉課が独自に搬送先病院を手配していながら、そのことについて県災対本部と連絡を取らなかったため、搬送先は遠方の高等学校の体育館となってしまった。
  4. 同日夜、双葉病院長は、警察官と共に割山峠に退避して自衛隊の救出部隊を待っいたが、福島県警察本部から連絡を受けた県災対本部内でこの情報が共有されなったため、同院長らは自衛隊と合流できず、同月15 日の救出に立ち会えなかった。
    そのため、同日2 回目の救出に当たった自衛隊は、同病院別棟に35 名の患者が残されていることに気付かず、患者はそのまま残された。
  5. 県災対本部救援班は、同病院患者の避難のオペレーションの全体を統括していたわけではなく、全体についての情報を正確に把握していないのに、断片的な情報を基に、あたかも双葉病院関係者等が陸上自衛隊の救出を待たずに現場から逃走したかのような印象を与える不適切な広報を行った。
被災地からの避難・救出における今回のような事態の再発を防ぐためには、第1 に、県が設置する災害対策本部の班編成を、平時の組織を単に縦割り的に寄せ集めたものでなく、対応すべき措置に応じた横断的、機能的なものにするとともに、全体を統括・調整できる仕組みを設け、かつ、各班相互の意思疎通の強化を図ること、第2 に、防災計画においても、県の災害対策本部に詰める職員のみならず、必要に応じ、いつでも他の職員も災害対応に当たる全庁態勢をとること等が必要である。
また、原子力災害においては、その規模の大きさから、県が前面に出て対応に当たらなければならず、この点を踏まえた防災計画を策定する必要がある。』
柳田氏は『原発を推進してきた専門家、電力会社のすべてに共通するのは原子力技術への自信過剰です。(中略)自分自身や家族が原発事故によって自宅も仕事も田畑も捨て、いつ戻れるともしれない避難生活を強いられたらどうなるだろうか。そいう被害者の視点から発想して原発システムと地域防災計画を厳しくチェックし、事故対策を立てれば違った展開になっていただろうと思うのです。電力会社や行政の担当者は、システムの中枢部分の安全対策には精力を注ぎます。それも不十分だったわけですが、周辺住民をどうやって安全に避難させるかといった問題はいわば遠景として軽く見がちです。(中略)三人称の視点でみているわけです。「もしこれが自分の家族だったら」という被害者側に寄り添う視点があれば、避難計画の策定もより真剣になっていたでしょう。私は客観性のある三人称と二人称の間の[2.5人称]の視点を提唱しています。』とインタビューを結んでおられます。

(所感)
 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」は、非常に広汎な問題について触れていますが、大きな特色は調査に当たる中心人物の持つ強固な思想と信念が調査報告に生きているということです。
 8月4日の朝日新聞の柳田邦男氏のインタビュー記事の最後に山口栄二記者の「取材を終えて」は『「死ぬ気でやっていますから」という言葉にどきりとした。委員長代理を引き受けてから作家としての新しい仕事は断り(中略)翌日の委員会に出す原稿を書くのに睡眠1-2時間という日が続いた。(中略)改めて最終報告を読み返すと、言葉がより強く心に迫ってきた。』と結ばれています。
 会社の経営、大きな事業の推進、委員会報告書の作成等の総てに共通することですが、如何に多くの人間が参画していても、リーダーの強固な思想と信念が無ければ優れた成果は決して得られません。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故に関しては、四つの報告書が出されています。
  • 「福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)」の報告書 (24.2.28)
  • 東京電力㈱の「福島原子力事故調査報告書」(24.6.20)
  • 国会の「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」の報告書 (24.7.5)
  • 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書 (24.7.23) 
7月24日の朝日3面の寄稿で、加藤陽子東大教授は、第2次世界大戦終結時政府が自ら歴史の総括をしなかった事と対比して今回の国会と政府の大規模な事故調査と報告書作成の画期性を指摘されています。

 最近、保坂正康氏の「昭和史二つの日」を読みました。同氏は『開戦への決定過程の解明が足りない。また「一億総懺悔」は戦争の責任を曖昧にする非常に日本的な総括だ。』と指摘されています。責任の所在が曖昧なままでは教訓が活きません。事故の責任を明らかにすべきだと思います。
 私は敗戦の日、昭和20年8月10日は小学校の6年生でしたので、中・高・大学時代を通しての経験から、わが国で第2次世界大戦が敗戦に至った事情の分析と反省が十分に行われなかった結果が、現在の社会や企業に禍根を残していることを痛感します。これを東京電力の福島原子力事故で繰り返してはなりません。
 責任回避と弁明に終始している東京電力㈱の「福島原子力事故調査報告書」を除けば,何れの報告書にも傾聴すべきご意見が記載されています。
 私は客観的な事実を整理した上、今回の事故の教訓を活かすためには如何にあるべきかについて、報告書作成の中心になる方々の強固な思想と信念が滲み出ている「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書に最も感銘致しました。
 今後、東京電力福島原子力発電所における事故の処理、損害賠償、それを踏まえた東京電力の再建には多大の困難が予想されます。政府の抜本的決断無くしては東京電力の再建は不可能だと思います。これらの報告書の提言を活かし、わが国の将来のために如何に対処するのか政府・東京電力関係者の責任は重大です。

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「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書(2) ~ 想定外と言うこと③ ~

2012年8月10日金曜日 | ラベル: |

8月11日で満79歳になります。未だブログを書くことが出来て大変幸せです。気力・体力のある限リ書き続けたいと思います。
 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」中間報告書の最も重要なテーマは「想定外」の問題だと1月20日に書きました。最終報告書でもそのことに触れています。

○ロンドンその2・朝靄のハイドパーク。



 ○リスがいました。

○「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書 
                                            *下線は筆者

 報告書は、2 重要な論点の総括、(3)求められるリスク認識の転換 で、
『(ⅰ)日本は古来、様々な自然災害に襲われてきた「災害大国」であることを肝に命じて、自然界の脅威、地殻変動の規模と時間スケールの大きさに対し、謙虚に向き合うこと。
(ⅱ)リスクの捉え方を大きく転換すること。これまで安全対策・防災対策の基礎にしてきたリスクの捉え方は、発生確率の大小を判断基準の中心に据えて、発生確率の小さいものについては、安全対策の対象から外してきた。一般的な機械や建築物の設計の場合は、そういう捉え方でも一定の合理性があった。しかし、東日本大震災が示したのは、“たとえ確率論的に発生確率が低いとされた事象であっても、一旦事故・災害が起こった時の被害の規模が極めて大きい場合には、しかるべき対策を立てることが必要である”というリスク認識の転換の重要性であった。
その場合、一般的な機械や設備等の設計については、リスク論において通念化されている「リスク=発生確率×被害の規模」というリスクの捉え方でカバーできるだろうが、今回のような巨大津波災害や原子力発電所のシビアアクシデントのように広域にわたり甚大な被害をもたらす事故・災害の場合には、発生確率にかかわらずしかるべき安全対策・防災対策を立てておくべきである、という新たな防災思想が、行政においても企業においても確立される必要がある。』
と述べています。更に、
(5)「想定外」問題と行政・東京電力の危機感の希薄さ
そもそも「想定外」という言葉には、大別すると二つの意味がある。一つは、最先端の学術的な知見をもってしても予測できなかった事象が起きた場合であり、もう一つは、制度や建築物を作ったり、自然災害の発生を予測したりする場合に、予想されるあらゆる事態に対応できるようにするには財源等の制約から無理があるため、現実的な判断により発生確率の低い事象については除外するという線引きをしていたところ、線引きした範囲を大きく超える事象が起きたという場合である。今回の大津波の発生は、この10 年余りの地震学の進展と防災行政の経緯を調べてると、後者であったことが分かる。(中略)
(東電が想定外としたのは)大きな地震が発生した記録のない領域については対象から外す、というものだった。「発生の可能性に関する十分な知見が得られていない(=科学的な研究が未成熟)」というのがその理由であった。(中略)
(東電は)すぐに新たな津波対策に取り組むのではなく、土木学会に検討を依頼するとともに、福島県沿岸部の津波堆積物調査を行う方針を決めるだけにとどめた。(中略)
防災対策に関する行政の意思決定過程を、行政の論理の枠内で見ると、それなりの合理性があったことは否定できない。しかし、大津波により2 万人近くの犠牲者が発生し、高さ14mを超える大津波が来襲して原発事故が引き起こされ、十数万人が避難を余儀なくされたという事実を前にして、行政には何の誤りもなかった、「想定外」の大地震・大津波だったから仕方がないと言って済ますことはできるだろうか。それでは、安全な社会づくりの教訓は何も得られないだろう。』
と記述されています。

以下は
○委員長所感 (東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 委員長 畑村 洋太郎)
の抜粋です。
『(1)あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
 今回の事故の直接的な原因は、「長時間の全電源喪失は起こらない」との前提の下に全てが構築・運営されていたことに尽きる。しかし、本来は「あり得ることは起こる」と考えるべきである。当委員会が中間報告を取りまとめた後の平成24 年2 月に海外の専門家を招いて開催した国際会議においてフランスの専門家などから、原子力発電分野では“ありそうにないことも起こり得る(improbable est possible)、と考えなければならない”と指摘された。どのようなことについて考えるべきかを考える上で最も重要なことは、経験と論理で考えることである。国内外で過去に起こった事柄や経験に学ぶことと、あらゆる要素を考えて論理的にあり得ることを見付けることである。
 発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである
さらに、「あり得ないと思う」という認識にすら至らない現象もあり得る、言い換えれば「思い付きもしない現象も起こり得る」ことも併せて認識しておく必要があろう。
(2)見たくないものは見えない。見たいものが見える。
人間はものを見たり考えたりするとき、自分が好ましいと思うものや、自分がやろうと思う方向だけを見がちで、見たくないもの、都合の悪いことは見えないものである。東京電力の自然災害対策において、津波に対するAM 策を整備していなかったことや、複数の原子炉施設が同時に全電源喪失する事態への備えがなかったことにも、このような人間の心理的影響が垣間見える。このようなことを防ぐには、自分の利害だけでなく自分を取り巻く組織・社会・時代の様々な影響によって自分の見方が偏っていることを常に自覚し、必ず見落としがあると意識していなければならない
(3)可能な限りの想定と十分な準備をする。
 可能な限りの想定と十分な準備をすることが重要である。さらに、思い付きもしないことが起こり得る可能性を否定せず、最悪の事態に至らないような備えをしておくことが必要である。今回の事故では、調査の結果、地震に対する備えは相当程度行われており、地震自体によって重要設備が機能を喪失したことは確認できていないが、想定を超える津波に襲われた場合の備えがなかったために対応できず、大事故に至ったと考えられる。確立していないものであっても新たな知見を受け入れて津波の想定を見直し、それに対して十分な準備がしてあれば、又は予期せぬ事態の出来に備え十分な準備がしてあれば、今回のような大事故には至らなかった可能性がある。
 後から考えてこのようなことを言うのは容易であるが、まだ起こっていない時にこのような考え方をするのは非常に難しい。しかし、設計段階など過去のある時点での想定にとらわれず、常に可能な限り想定の見直しを行って事故や災害の未然防止策を講じるとともに、これまで思い付きもしない事態も起こり得るとの発想の下で十分な準備をすることが必要である
(4)形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが、目的は共有されない。
   (略)
(5)全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
   (略)
(6)危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
 危険が存在することを認めず、完全に排除すべきと考えるのは一見誠実な考え方のようであるが、実態に合わないことがままある。どのような事態が生ずるかを完全に予見することは何人にもできないにもかかわらず、危険を完全に排除すべきと考えることは、可能性の低い危険の存在をないことにする「安全神話」につながる危険がある。原子力発電は極めてエネルギー密度が高く、元来危険なものであるにもかかわらず、社会の不安感を払拭するために危険がないものとして原子力利用の推進が図られてきたことは否定できない。原子力防災マニュアルが今回のような大規模な災害に対応できるものとはなっておらず、事前の防災訓練も不十分であったなど、原子力防災対策が不十分であったことの背景に、我が国の原子力発電所では大量の放射性物質が飛散するような重大な事故は起きないという思い込みがあったことは否定できない。
 危険の存在を認めなければ、考え方が硬直化して実態に合わなくなるばかりでなく、真に必要な防災・減災対策を取ることができなくなる。危険を完全に排除しようとするために余計なコストを抱え込むことになったり、危険が顕在化してしまった後の被害の拡大を防止し影響を緩和するための減災対策を議論し、実施することができなくなる。原子力に限らず、危険を危険として認め、危険に正対して議論できる文化を作らなければ、安全というベールに覆われた大きな危険を放置することになる。(後略)
(7)自分の目で見て自分の頭で考え、判断・行動することが重要であることを認識しそ
のような能力を涵養することが重要である。(略)

 中間報告及び本最終報告で述べたとおり、個々の事象への対処には不適切なものがあったことは否めないが、他方で、現場作業に当たった関係者の懸命の努力があったことも是非ここに記しておきたい
 原子力発電所の事故は、事故発生から廃炉作業などの必要な措置が終了して真に事故が終息したと言えるまで、非常に長い期間を必要とするだけでなく、飛散した放射性物質によってその周囲に生活していた人々を全く理不尽にその場所から引きはがし、広範な地域において人間の生活と社会活動を破壊してしまう恐ろしいものである。現に、福島県の十万人以上に上る人々が避難を余儀なくされているなど、多数の人々が現在もこの事故の被害を受け、国民生活にも大きな影響が続いている。世界の人々も、今回の事故に強い衝撃と不安を感じた。我々は、この事故を通じて学んだ事柄を今後の社会運営に生かさなければならない。この事故は自然が人間の考えに欠落があることを教えてくれたものと受け止め、この事故を永遠に忘れることなく、教訓を学び続けなければならない

(所感)
 東京電力の福島原子力発電所における事故に関する調査報告書は、非常に広汎な問題について触れていますが、2012年1月20日に書きましたように最も重要なテーマは「想定外」の問題だと改めて思いました。
 リスクマネジメントの実践に際し、色々な事象から、将来起こるであろうリスクを想定し評価する場合、想定の内容はリスクマネジメントの担当者によって大きく変わってきます(リスクマネジメントの参考書にはこう言ったことも全く書いてありませんが)。
 私はリスクマネジャーとしての能力の重要な部分の1つは、企業に取って最も重要なリスクは何かを想定し、それを評価し、対策を講じるに当たり、本格推理小説における名探偵と同じような論理力・構成力・イマジネーションだと思っています。単独のリスクでもそうですが、いくつかのリスクが絡み合って大きなリスクになるような場合は特にこうした能力が必要です。
 東京電力のトップ、リスク管理部門、原子力発電部門のすべてにわたって今般の津波の想定が発想できなかった(しなかった?)ことについては、大きな問題だと思います。
 先に引用しましたように、今回の「想定外」と言う事態は『最先端の学術的な知見をもってしても予測できなかった事象が起きた場合』では無く『予想されるあらゆる事態に対応できるようにするには財源等の制約から無理があるため、現実的な判断により発生確率の低い事象については除外するという線引きをしていたところ、線引きした範囲を大きく超える事象が起きたという場合』であり、リスクマネジメントに関係する者として、リスクの想定に関する極めて大きな問題を提起している事例だと思います。
 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書と他の報告書との相異点は、客観的な調査の結果に中心になられた 畑村洋太郎先生・柳田邦男氏らのご意見が加っていることです。
畑村洋太郎委員長の委員長所感 にある、
発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである。』
『このようなことを防ぐには、自分の利害だけでなく自分を取り巻く組織・社会・時代の様々な影響によって自分の見方が偏っていることを常に自覚し、必ず見落としがあると意識していなければならない。』
後から考えてこのようなことを言うのは容易であるが、まだ起こっていない時にこのような考え方をするのは非常に難しい。しかし、設計段階など過去のある時点での想定にとらわれず、常に可能な限り想定の見直しを行って事故や災害の未然防止策を講じるとともに、これまで思い付きもしない事態も起こり得るとの発想の下で十分な準備をすることが必要である。』
等の指摘を、リスクマネジメントに携わるすべての関係者は良く噛みしめて、今回の事故の教訓を後世に活かさなければならないと強く思いました。
次回は柳田邦男氏の「被害者からの目線」について書きます。
 

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「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書(1) ~ 東京電力の問題点について ~

2012年8月1日水曜日 | ラベル: |

2011年12月26日に公表された畑村洋太郎先生・柳田邦男氏が中心の「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」中間報告書の最も重要なテーマは「想定外」の問題だと2012年1月20日に書きました。 同報告書の「最終報告書」が7月23日に公表され、私は主として同報告書の「Ⅳ、総括と提言」「委員長所感」を読んで感想を書きました。長くなりますので分けて書きます。

 ロンドンオリンピックが始まりました。私は1995年に1度だけロンドンに出張しました。
 ○ハイドパークの朝です。

 ○私はバラが趣味なので、出張の日程で半日だけあった自由時間に、キュー・ガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)へ行って来ました。大温室です。

○「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書(1) ~東京電力の問題点について~ 

「Ⅳ、総括と提言」の書き出しの記述です。
『今回の事故は、直接的には地震・津波という自然現象に起因するものであるが、当委員会による調査・検証の結果、今回のような極めて深刻かつ大規模な事故となった背景には、事前の事故防止策・防災対策、事故発生後の発電所における現場対処、発電所外における被害拡大防止策について様々な問題点が複合的に存在したことが明らかになった。例えば、事前の事故防止策・防災対策においては、東京電力や原子力安全・保安院(以下「保安院」という。)等の津波対策・シビアアクシデント対策が不十分であり、大規模な複合災害への備えにも不備があり、格納容器が破損して大量の放射性物質が発電所外に放出されることを想定した防災対策もとられていなかった。東京電力の事故発生後の発電所における現場対処にも不手際が認められ、政府や地方自治体の発電所外における被害拡大防止策にも、モニタリング、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の活用、住民に対する避難指示、被ばくへの対応、国内外への情報提供などの様々な場面において、被災者の立場に立った対応が十分なされないなどの問題点が認められた。加えて、政府の危機管理態勢の問題点も浮かび上がった。』 
我が国の原子炉施設の安全確保のための対策の問題点は、地震・津波等の外的事象によるリスクが重要であるとの指摘があったにもかかわらず、実際の対策に十分反映されなかった。(中略)また原子力発電の安全を確保するためには、単に発生した個別問題への対応にとどまらず、国内外の最新の知見はもとより、国際的な安全規制や核セキュリティ等の動向にも留意しつつ、国内規制を最新・最善のものに改訂する努力を不断に継続する必要がある。』

○東京電力に関する問題点

a 危機対応能力の脆弱性
b 専門職掌別の縦割り組織の問題点
c 過酷な事態を想定した教育・訓練の欠如
d 事故原因究明への熱意の不足
e より高い安全文化の構築が必要

報告書は、東京電力に関する分析の項目で、上記の項目を指摘しています。指摘の内容は報告書をお読み下さい。さらに、
『東京電力の対応を追ってみると、同社には原発プラントに致命的な打撃を与える恐れのある大津波に対する緊迫感と想像力が欠けていたと言わざるを得ない。そして、そのことが深刻な原発事故を生じさせ、また、被害の拡大を防ぐ対策が不十分であったことの重要な背景要因の一つであったと言えるであろう。』
「想定外」問題に対する東京電力の危機感の希薄さに関しては
『そもそも「想定外」という言葉には、大別すると二つの意味がある。一つは、最先端の学術的な知見をもってしても予測できなかった事象が起きた場合であり、もう一つは、制度や建築物を作ったり、自然災害の発生を予測したりする場合に、予想されるあらゆる事態に対応できるようにするには財源等の制約から無理があるため、現実的な判断により発生確率の低い事象については除外するという線引きをしていたところ、線引きした範囲を大きく超える事象が起きたという場合である。今回の大津波の発生は、この10 年余りの地震学の進展と防災行政の経緯を調べてると、後者であったことが分かる
(中略)大きな地震が発生した記録のない領域については対象から外す、というものだった。「発生の可能性に関する十分な知見が得られていない(=科学的な研究が未成熟)」というのが想定外の理由であった。』
と言っています。

○ 東京電力の在り方に関する提言(最終報告Ⅵ1(6)e)では、
東京電力は、原子力発電所の安全性に一義的な責任を負う事業者として、国民に対して重大な社会的責任を負っているが、津波を始め、自然災害によって炉心が重大な損傷を受ける事態に至る事故の対策が不十分であり、福島第一原発が設計基準を超える津波に襲われるリスクについても、結果として十分な対応を講じていなかった。組織的に見ても、危機対応能力に脆弱な面があったこと、事故対応に当たって縦割り組織の問題が見受けられたこと、過酷な事態を想定した教育・訓練が不十分であったこと、事故原因究明への熱意が十分感じられないことなどの多くの問題が認められた。東京電力は、当委員会の指摘を真摯に受け止めて、これらの問題点を解消し、より高いレベルの安全文化を全社的に構築するよう、更に努力すべきである。』
としています。

 私のブログでも屡々書いていますように、今回の福島第一原子力発電所の事故における東京電力の対応には大いに問題があったと思います。然し、畑村洋太郎委員長は、「委員長所感」の中で、
『中間報告及び本最終報告で述べたとおり、個々の事象への対処には不適切なものがあったことは否めないが、他方で、現場作業に当たった関係者の懸命の努力があったことも是非ここに記しておきたい。』
と触れておられます。

(所感)
 私は、リスクマネジメントに携わる者として、また元銀行員としてリスクファイナンスの視点から、今回の福島原子力発電所の事故発生以来、新聞や諸雑誌の記事を読み、テレビの報道を見、4つの事故報告書を読み、事態の推移をフォローして来ました。
 その結果は、折々のブログに書いておりますが、結果としてわが国のトップ企業と評価されていた東京電力の在り方について非常な違和感と疑問を持ちました。
 6月20日(水)に公表された東京電力㈱の「福島原子力事故調査委員会」による「福島原子力事故調査報告書」は、自社の損害賠償責任のことを考えているのかも知れませんがこの期に及んでも事故の原因はあくまでも想定外の津波の結果だとしていて、想定出来なかったことに対する深刻な反省・責任の自覚は皆無です。まるで他人事で、他の3つの報告書の内容と大きく違っています。

 私は、戦争を知っている世代として、戦後我が国で「日本が第2次世界大戦で敗戦に至った経緯の分析と反省」が十分に行われず、その結果が現在のわが国の社会や企業に禍根を残していることを非常に遺憾に思っています。福島第一原子力発電所事故の調査がその轍を踏まないようにしなければなりません。
 畑村洋太郎委員長は、今回の報告書の「委員長所感」の最後を、『我々は、この事故を通じて学んだ事柄を今後の社会運営に生かさなければならない。この事故は自然が人間の考えに欠落があることを教えてくれたものと受け止め、この事故を永遠に忘れることなく、教訓を学び続けなければならない。』という言葉で結んでおられます。全く同感です。

 7月31日に国の資本が東京電力に注入され、東京電力は実質国有化されました。7月30日の日本経済新聞2面「東電再建へ7施策」の報道では、施策の最初が職員の「意識改革」です。これが原点です。米倉経団連会長は「国営では上手く行かない。」と仰せられていますがあのままではこうは行かなかったと思います。新経営陣のガバナンスに期待します。東電の社員の方々は辛いでしょうが、率直に今までの在り方を反省して教訓を活かす努力をして頂きたいと切にお願い申し上げます。

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