「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書(2) ~ 想定外と言うこと③ ~

2012年8月10日金曜日 | ラベル: |

8月11日で満79歳になります。未だブログを書くことが出来て大変幸せです。気力・体力のある限リ書き続けたいと思います。
 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」中間報告書の最も重要なテーマは「想定外」の問題だと1月20日に書きました。最終報告書でもそのことに触れています。

○ロンドンその2・朝靄のハイドパーク。



 ○リスがいました。

○「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書 
                                            *下線は筆者

 報告書は、2 重要な論点の総括、(3)求められるリスク認識の転換 で、
『(ⅰ)日本は古来、様々な自然災害に襲われてきた「災害大国」であることを肝に命じて、自然界の脅威、地殻変動の規模と時間スケールの大きさに対し、謙虚に向き合うこと。
(ⅱ)リスクの捉え方を大きく転換すること。これまで安全対策・防災対策の基礎にしてきたリスクの捉え方は、発生確率の大小を判断基準の中心に据えて、発生確率の小さいものについては、安全対策の対象から外してきた。一般的な機械や建築物の設計の場合は、そういう捉え方でも一定の合理性があった。しかし、東日本大震災が示したのは、“たとえ確率論的に発生確率が低いとされた事象であっても、一旦事故・災害が起こった時の被害の規模が極めて大きい場合には、しかるべき対策を立てることが必要である”というリスク認識の転換の重要性であった。
その場合、一般的な機械や設備等の設計については、リスク論において通念化されている「リスク=発生確率×被害の規模」というリスクの捉え方でカバーできるだろうが、今回のような巨大津波災害や原子力発電所のシビアアクシデントのように広域にわたり甚大な被害をもたらす事故・災害の場合には、発生確率にかかわらずしかるべき安全対策・防災対策を立てておくべきである、という新たな防災思想が、行政においても企業においても確立される必要がある。』
と述べています。更に、
(5)「想定外」問題と行政・東京電力の危機感の希薄さ
そもそも「想定外」という言葉には、大別すると二つの意味がある。一つは、最先端の学術的な知見をもってしても予測できなかった事象が起きた場合であり、もう一つは、制度や建築物を作ったり、自然災害の発生を予測したりする場合に、予想されるあらゆる事態に対応できるようにするには財源等の制約から無理があるため、現実的な判断により発生確率の低い事象については除外するという線引きをしていたところ、線引きした範囲を大きく超える事象が起きたという場合である。今回の大津波の発生は、この10 年余りの地震学の進展と防災行政の経緯を調べてると、後者であったことが分かる。(中略)
(東電が想定外としたのは)大きな地震が発生した記録のない領域については対象から外す、というものだった。「発生の可能性に関する十分な知見が得られていない(=科学的な研究が未成熟)」というのがその理由であった。(中略)
(東電は)すぐに新たな津波対策に取り組むのではなく、土木学会に検討を依頼するとともに、福島県沿岸部の津波堆積物調査を行う方針を決めるだけにとどめた。(中略)
防災対策に関する行政の意思決定過程を、行政の論理の枠内で見ると、それなりの合理性があったことは否定できない。しかし、大津波により2 万人近くの犠牲者が発生し、高さ14mを超える大津波が来襲して原発事故が引き起こされ、十数万人が避難を余儀なくされたという事実を前にして、行政には何の誤りもなかった、「想定外」の大地震・大津波だったから仕方がないと言って済ますことはできるだろうか。それでは、安全な社会づくりの教訓は何も得られないだろう。』
と記述されています。

以下は
○委員長所感 (東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 委員長 畑村 洋太郎)
の抜粋です。
『(1)あり得ることは起こる。あり得ないと思うことも起こる。
 今回の事故の直接的な原因は、「長時間の全電源喪失は起こらない」との前提の下に全てが構築・運営されていたことに尽きる。しかし、本来は「あり得ることは起こる」と考えるべきである。当委員会が中間報告を取りまとめた後の平成24 年2 月に海外の専門家を招いて開催した国際会議においてフランスの専門家などから、原子力発電分野では“ありそうにないことも起こり得る(improbable est possible)、と考えなければならない”と指摘された。どのようなことについて考えるべきかを考える上で最も重要なことは、経験と論理で考えることである。国内外で過去に起こった事柄や経験に学ぶことと、あらゆる要素を考えて論理的にあり得ることを見付けることである。
 発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである
さらに、「あり得ないと思う」という認識にすら至らない現象もあり得る、言い換えれば「思い付きもしない現象も起こり得る」ことも併せて認識しておく必要があろう。
(2)見たくないものは見えない。見たいものが見える。
人間はものを見たり考えたりするとき、自分が好ましいと思うものや、自分がやろうと思う方向だけを見がちで、見たくないもの、都合の悪いことは見えないものである。東京電力の自然災害対策において、津波に対するAM 策を整備していなかったことや、複数の原子炉施設が同時に全電源喪失する事態への備えがなかったことにも、このような人間の心理的影響が垣間見える。このようなことを防ぐには、自分の利害だけでなく自分を取り巻く組織・社会・時代の様々な影響によって自分の見方が偏っていることを常に自覚し、必ず見落としがあると意識していなければならない
(3)可能な限りの想定と十分な準備をする。
 可能な限りの想定と十分な準備をすることが重要である。さらに、思い付きもしないことが起こり得る可能性を否定せず、最悪の事態に至らないような備えをしておくことが必要である。今回の事故では、調査の結果、地震に対する備えは相当程度行われており、地震自体によって重要設備が機能を喪失したことは確認できていないが、想定を超える津波に襲われた場合の備えがなかったために対応できず、大事故に至ったと考えられる。確立していないものであっても新たな知見を受け入れて津波の想定を見直し、それに対して十分な準備がしてあれば、又は予期せぬ事態の出来に備え十分な準備がしてあれば、今回のような大事故には至らなかった可能性がある。
 後から考えてこのようなことを言うのは容易であるが、まだ起こっていない時にこのような考え方をするのは非常に難しい。しかし、設計段階など過去のある時点での想定にとらわれず、常に可能な限り想定の見直しを行って事故や災害の未然防止策を講じるとともに、これまで思い付きもしない事態も起こり得るとの発想の下で十分な準備をすることが必要である
(4)形を作っただけでは機能しない。仕組みは作れるが、目的は共有されない。
   (略)
(5)全ては変わるのであり、変化に柔軟に対応する。
   (略)
(6)危険の存在を認め、危険に正対して議論できる文化を作る。
 危険が存在することを認めず、完全に排除すべきと考えるのは一見誠実な考え方のようであるが、実態に合わないことがままある。どのような事態が生ずるかを完全に予見することは何人にもできないにもかかわらず、危険を完全に排除すべきと考えることは、可能性の低い危険の存在をないことにする「安全神話」につながる危険がある。原子力発電は極めてエネルギー密度が高く、元来危険なものであるにもかかわらず、社会の不安感を払拭するために危険がないものとして原子力利用の推進が図られてきたことは否定できない。原子力防災マニュアルが今回のような大規模な災害に対応できるものとはなっておらず、事前の防災訓練も不十分であったなど、原子力防災対策が不十分であったことの背景に、我が国の原子力発電所では大量の放射性物質が飛散するような重大な事故は起きないという思い込みがあったことは否定できない。
 危険の存在を認めなければ、考え方が硬直化して実態に合わなくなるばかりでなく、真に必要な防災・減災対策を取ることができなくなる。危険を完全に排除しようとするために余計なコストを抱え込むことになったり、危険が顕在化してしまった後の被害の拡大を防止し影響を緩和するための減災対策を議論し、実施することができなくなる。原子力に限らず、危険を危険として認め、危険に正対して議論できる文化を作らなければ、安全というベールに覆われた大きな危険を放置することになる。(後略)
(7)自分の目で見て自分の頭で考え、判断・行動することが重要であることを認識しそ
のような能力を涵養することが重要である。(略)

 中間報告及び本最終報告で述べたとおり、個々の事象への対処には不適切なものがあったことは否めないが、他方で、現場作業に当たった関係者の懸命の努力があったことも是非ここに記しておきたい
 原子力発電所の事故は、事故発生から廃炉作業などの必要な措置が終了して真に事故が終息したと言えるまで、非常に長い期間を必要とするだけでなく、飛散した放射性物質によってその周囲に生活していた人々を全く理不尽にその場所から引きはがし、広範な地域において人間の生活と社会活動を破壊してしまう恐ろしいものである。現に、福島県の十万人以上に上る人々が避難を余儀なくされているなど、多数の人々が現在もこの事故の被害を受け、国民生活にも大きな影響が続いている。世界の人々も、今回の事故に強い衝撃と不安を感じた。我々は、この事故を通じて学んだ事柄を今後の社会運営に生かさなければならない。この事故は自然が人間の考えに欠落があることを教えてくれたものと受け止め、この事故を永遠に忘れることなく、教訓を学び続けなければならない

(所感)
 東京電力の福島原子力発電所における事故に関する調査報告書は、非常に広汎な問題について触れていますが、2012年1月20日に書きましたように最も重要なテーマは「想定外」の問題だと改めて思いました。
 リスクマネジメントの実践に際し、色々な事象から、将来起こるであろうリスクを想定し評価する場合、想定の内容はリスクマネジメントの担当者によって大きく変わってきます(リスクマネジメントの参考書にはこう言ったことも全く書いてありませんが)。
 私はリスクマネジャーとしての能力の重要な部分の1つは、企業に取って最も重要なリスクは何かを想定し、それを評価し、対策を講じるに当たり、本格推理小説における名探偵と同じような論理力・構成力・イマジネーションだと思っています。単独のリスクでもそうですが、いくつかのリスクが絡み合って大きなリスクになるような場合は特にこうした能力が必要です。
 東京電力のトップ、リスク管理部門、原子力発電部門のすべてにわたって今般の津波の想定が発想できなかった(しなかった?)ことについては、大きな問題だと思います。
 先に引用しましたように、今回の「想定外」と言う事態は『最先端の学術的な知見をもってしても予測できなかった事象が起きた場合』では無く『予想されるあらゆる事態に対応できるようにするには財源等の制約から無理があるため、現実的な判断により発生確率の低い事象については除外するという線引きをしていたところ、線引きした範囲を大きく超える事象が起きたという場合』であり、リスクマネジメントに関係する者として、リスクの想定に関する極めて大きな問題を提起している事例だと思います。
 「政府の東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」の最終報告書と他の報告書との相異点は、客観的な調査の結果に中心になられた 畑村洋太郎先生・柳田邦男氏らのご意見が加っていることです。
畑村洋太郎委員長の委員長所感 にある、
発生確率が低いということは発生しないということではない。発生確率の低いものや知見として確立していないものは考えなくてもよい、対応しなくてもよいと考えることは誤りである。』
『このようなことを防ぐには、自分の利害だけでなく自分を取り巻く組織・社会・時代の様々な影響によって自分の見方が偏っていることを常に自覚し、必ず見落としがあると意識していなければならない。』
後から考えてこのようなことを言うのは容易であるが、まだ起こっていない時にこのような考え方をするのは非常に難しい。しかし、設計段階など過去のある時点での想定にとらわれず、常に可能な限り想定の見直しを行って事故や災害の未然防止策を講じるとともに、これまで思い付きもしない事態も起こり得るとの発想の下で十分な準備をすることが必要である。』
等の指摘を、リスクマネジメントに携わるすべての関係者は良く噛みしめて、今回の事故の教訓を後世に活かさなければならないと強く思いました。
次回は柳田邦男氏の「被害者からの目線」について書きます。