「リスクとキャッシュフロー」について ④

2013年8月20日火曜日 | ラベル: |

3.企業の将来を見る
 8月17日(土)の日本経済新聞1面に、「金融庁は1990年代はじめのバブル崩壊後の不良債権処理を目的とした検査の見直しの検討を始めた。」と報じられています。
 同記事によれば、「銀行は赤字決算をしたり、返済が1~2ヶ月滞った企業を〈その他要注意先〉として管理しており、正常債権ではあるが〈不良債権予備軍〉といわれる。金融庁の検査で不良債権とみなされると貸倒引当金を積増す必要があり、新規融資に応じられなくなっていた。」「(見直しの)最大のポイントは融資先の査定を銀行に任せることだ。仮に倒産しても銀行の経営に響かない中小企業向けの融資は,原則銀行の自己査定を尊重する。大口融資も検査対象にする範囲を小さくする。」「金融庁が銀行の自主判断を尊重することで、銀行は〈その他要注意先〉にも新規に融資できるようになる。創業期に赤字が続くベンチャー企業や、技術力はあるのに過去の投資の失敗で赤字に陥っている中小企業などが将来的な成長力や潜在力をもとに運転資金や設備資金を借りやすくなる。」「金融庁が検査体制を見直すのは、バブル期のように甘い自己査定が原因で銀行の経営が揺らぐリスクが遠のいたからだ。また、金融危機が去って銀行の体力が回復したのに融資が伸悩む背景には、金融庁検査で細かく銀行を拘束しすぎる弊害があると判断した。」と記述されています。誠に尤もなことで、銀行融資の本来あるべき姿に戻ることになるのだと思います。
 今後、銀行に求められるものは「企業の将来を見る」能力です。

(1)「会社分析」
 旧住友銀行のOBで後、後に朝日監査法人理事長、日本公認会計士協会会長になられた小澤修冶氏の「会社分析」(春秋社1956年)には『一般には「経営分析」の意味するところは、貸借対照表・損益計算書、その他財務諸表によって会社の資産内容などを分析してその適否・欠陥・傾向などを発見する方法である。』『「会社分析」と題した所以は、財務諸表の計数の分析にとどまらず、貨幣価値をもって表現出来ない外的な経済環境とその変化、内的な経営の人的要素とその運営管理を含めて会社の実態を認識すべきである。(序文)』という考えが書かれています。この本はこうした考えの基に書かれた、定性的な分析を加味した経営分析論の古典ともいうべき本です。こうした考えが旧住友銀行の企業分析の伝統で、その後も「最新銀行員の企業診断」(銀行研修社1983年)などの本にこの伝統が受け継がれています。
 もともと「会社分析」は、アメリカにおいて銀行が融資するに当たって、融資先から財務諸表の提出を求め、これを分析してその支払能力を判断するところから発展したものです。会社を分析する目的・対象・方法は、分析を行う主体(会社内部・金融機関・投資家など)のそれぞれの立場と性格によって、自ら目的が異なり、資料も限定され、方法も変わってくることになります。
 銀行の場合は、貸出金が貸倒れにならないよう、企業の将来を見通すために企業の分析を行う必要があります。
 企業のキャッシュフロー(資金繰り)は企業経営の結果です。キャッシュフロー(資金繰り)の見通しの根本は、今後企業が如何に経営されていくかに帰着します。企業のキャッシュフロー(資金繰り)については、当該企業の将来はどうなるかを根本的に検討した上で対策を考えるべきです。技術的なことは、その後に必要となります。

 
(2)企業全体を見る。(定性的項目も含めて企業を判断する)
 小澤修冶氏の言われる、貨幣価値をもって表現出来ない外的な経済環境とその変化、内的な経営の人的要素とその運営管理を含めて会社の実態を認識すべき項目について考えてみます。
① 外的な経済環境の変化について
 企業業績が外的な経済環境の変化によって左右されることは避けがたい運命です。企業は如何に対応していくか。これは経営者の判断に掛かっています。
 中小企業の場合は外的な経済環境の変化に抗することは到底不可能です。自助努力と政府の中小企業対策を活用するしかありません。毎年出版される、中小企業庁の「中小企業施策利用ガイドブック」に眼を通されることをお勧め致します。
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/index.html

② 経営者について
 企業が利益を挙げて存続していく為には経営者の資質が最も重要であることは誰しも異存がないことです。銀行員として永年企業とお付き合いしての私の結論は、「優れたワンマン経営者による経営がベスト」です。「優れた」という意味は、「部下の意見を良く聞き、外的な経済環境の変化に対する対応力を有する」ことだと思います。「ワンマン経営者」とは、「リーダーシップのある経営者」と言い換えられます。合議制による経営は、優れたワンマン経営者がいない場合の次善の策だと思います。
また我が国では、特に地方に業歴数百年という老舗企業が数多く存在していますので、一慨に世襲が悪いとは結論付けられません。

③ 企業全体を見る検討項目の例(製造業のケース)
 

 下記に縷々列挙していますが、過去の損益・キャッシュフローの実績だけでなく、それを齎した企業全体の状況と、それに基いた当該企業の将来の損益・キャッシュフローの見通しを考慮して、貸出金の安全性を判断しなければならないということです。
 その場合、支店の現場では個々の企業について分かっていても、数多くある業種の業界事情は十分には分かりませんので、旧住友銀行では後述するように調査部の信用調査係が業界別の立場からの意見を加えて、審査部とのダブルチェックを行っていました。

【 検討項目の例 】
1.会社の形態
 (1)設立(2)資本金(3)役員(4)株主(5)大株主 一族の保有状況       
2.会社の沿革及び経営
  (1)沿革 資本金推移 (2)経営の状況
4.営業の状況
  (1)扱い品
  (2)仕入 (イ)主要仕入先別仕入れ状況 (ロ)仕入決済条件
  (3)販売 (イ)品種別売上高 (ロ)受注残高推移 
        (ハ)主要販売先別販売実績       
        (ニ)販売決済条件
  (4)工場概観   技術水準 
  (5)業界における地位    同一製品の他社生産実績
5.業績の推移 
  (1)過去の推移 実際損益明細 連結損益明細    
  (2)部門別損益 子会社損益            
  (3)部門別損益分岐点 変動費・固定費明細 変動費率 限界利益率
  (4)見通しと対策 (イ)業績見通し (ロ)長期的見通しと対策
     製造原価明細 一般管理費販売費明細 利益金処分
6.資産の状況
  (1)実力 (表面自己資本+査定益―査定損=正味実力)  
  (2)貸借対照表
  (3)付保状況
  (4)担保権設定状況   

7.金融
 (1)金融基調 〔固定資産+固定的資産〕-〔長期引当金+固定負債+自己資本〕
=金融基調 *(+ or -)   
    主要財務比率    
 (2)資金移動(運用)状況  
     (イ)  / 〜 /  間の金繰り(資金移動)実績 
     (ロ)  / 〜 /  間の金繰り(資金移動)実績 
    (ハ)  / 〜 /  間の金繰り(資金移動)見通し 
     銀行別借入予想 ○年○月借入状況 当行与信及び担保
 8.関係会社
   (1)○○会社  設立 資本金 代表者 従業員    
             貸借対照表 実力  
   (2)○○会社  設立 資本金 代表者 従業員            
             貸借対照表 実力  
   (3)○○会社  設立 資本金 代表者 従業員    
             貸借対照表 実力  
(参考)
 ○貸借対照表内訳及び査定明細  (内容省略)
                         不良資産の内容・実際の資産価値等を実地調
                         査して査定益・査定損を算定

  *金融基調 短期資金繰りの判断    

 固定資産―(自己資本+固定負債)=金融基調 ( + or - )


流動資産
  流動負債

 
(金融基調  ―  )

固定資産
 
  固定負債
 
  自己資本

 固定資産を流動負債で賄っている場合(金融基調 マイナス)の場合は、
 短期資金繰りは不安定だと判断します。

流動資産   
 
流動負債
 
固定負債
 
(金融基調 +)
 
固定資産
自己資本

 流動資産を固定負債で賄っている場合(金融基調 プラス)の場合は、
 短期資金繰り上はプラスだと判断します。

(3)旧住友銀行 調査部信用調査係
 私は旧住友銀行入行後4年目に、東京調査部信用調査係に転勤しました。 旧住友銀行の調査部は大阪の調査部と東京調査部があり、各部は信用調査係と経済調査係に分かれていました。
〇経済調査係 マクロ経済 海外・国内経済情勢の分析。
      ・他行の調査部門は経済調査が主体だったかと思われます。
〇信用調査係 業種別業界事情調査・企業の実地調査・企業の格付けの実施。
      ・他行の信用調査(事業調査と言う場合が多かったと思います)部門は業
       種別の業界事情調査が主体だったかと思われます。       
 旧住友銀行の調査部信用調査係は企業の実地調査→実調を行う点に特色がありまし
た。業績・決算内容に問題がある企業・または銀行として取引を推進したい企業につ
いて、実地調査の上,調書を作成していました(後述)。
 更に、実調の場合、机上検討の場合ともに、自行としての企業の評価→格付けを行っていました。(評点 A・B・C上・C・C下・D)
 申請書(稟議書)のチェックを、審査部と調査部の2部門で行っていました。旧住友銀行のダブルチェック システムと言います。即ち、 
 審査部→原則支店単位 与信の安全性・取引採算等の見地から審査。
 調査部→業種別(調査部所見 業界の現状から見た与信の安全性のチェック)
     調査部の業界別担当者は自己の業界調査の結果と、支店からの申請書を業種別に見ることによって最新の担当業界の業況を把握出来る。業況の悪い業種で、もし業況が良い企業があれば、それは特殊事情があるのか、粉飾であると判断されます。 

 それでは、銀行員には企業の将来は良く見えるのか。これは非常に難しいことだと私は思います。
 私が東京調査部信用調査係に勤務しいていた,1960年代には「リスクマネジメント」と言う言葉はありませんでしたが、銀行支店の融資部門・本部の審査部門・調査部門は全体として、今で言う「与信リスクマネジメント」或いは「貸倒リスクのマネジメント」を行っていた訳です。 
 私は、調査部時代、支店融資部門(旧住友銀行では貸付係)時代、審査部時代、支店長時代にそれぞれ行った企業の将来に対する私の判断が正しかったか,出来るだけその後の推移をフォローするようにしていました。短期的にはある程度は予測出来ますが、中・長期的には「神のみぞ知ることだ」とさえ思えました。それでもリスクを最小にする為には、判断の試行錯誤を繰り返し、なるべく企業の将来が良く見えるように終始努力を続けるしかありません。この点についても、後述する積りです。
 冒頭の記事に言う、「銀行は〈その他要注意先〉にも新規に融資できるようになる。創業期に赤字が続くベンチャー企業や、技術力はあるのに過去の投資の失敗で赤字に陥っている中小企業などが将来的な成長力や潜在力をもとに運転資金や設備資金を借りやすくなる。」為には、銀行員は今後大いに勉強しなければ世の中の期待には添えないと私は思います。

 (4)貸すも親切貸さぬも親切
 私が若かった1960年代は、我が国全体として銀行からの資金供給が十分でなく、また企業の自己資本の蓄積も少なかった時代でした。企業の自己資本が不十分なまま銀行からの借り入れによって業容の拡大を続けていた時代に、銀行は運転資金貸出の部分は担保がないまま融資を行わざるを得ませんでした。従って企業が倒産すれば、都市銀行は必ず損失を蒙りました。では、貸倒れのリスクをどう扱うのか。
城南信用金庫の元理事長 小原鉄五郎氏の「私の体験的金融論・貸すも親切貸さぬも親切」(東洋経済新報社・1983年)には次のように書かれています。
「もともと庶民金融は担保が十分有るから貸そう、利息も元金も取りはぐれがなさそうだから貸そうというものではないはずである。その人が手掛けようとしている仕事がうまくいくか、いかないか。どうすればうまくいくかを相手の身になって考えて、その上でおカネを貸すようにしなければならない。考えてみて、どうもこれはまずいと思ったときには、どんないい担保があっても〝これはおやめになったらどうです〞と説得する。(中略)リスクは当然ある。借り手が一生懸命やっても、景気やめぐりあわせでどうしようもない貸倒れも出てくる。しかしそれはやむをえない。貸倒れはないに越したことはないが、それを恐れて安全・安全といって自分が損をしないことばかり考えていたのでは、本当の生きた中小企業金融は出来ない。」(同書50-61ページ) 
私は、銀行員の現役時代に大変感銘した記述でした。
 ある程度の貸倒リスクを想定して、金利水準を決め融資することが、わが国の現状では如何に難しいことか。中小企業金融はのありかたは、今でも小原鉄五郎氏の言われる通りだと私は思います。

次回は、「企業の将来を見る」ことの難しさについて,私の経験に基づく意見を書きます。


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「リスクとキャッシュフロー」について ③

2013年8月10日土曜日 | ラベル: |

2.メインバンクによるリスクファイナンス機能の例 ・
 安宅産業のケース  ―メインバンクとしての公共的使命―

(6)安宅産業のケースに対する私見
① メインバンクの対応としてそれで良かったのか。
 安宅産業の損失は住友銀行・協和銀行他16行で負担しました。住友銀行はメインバンクとして最大の負担をした上、その後エーシー産業の損失も負担しました。
 1975年9月末の住友銀行の安宅産業に対する貸出金は670億円、安宅アメリカに対する4貸出しは5,100萬ドル(1ドル307円として、157億円)でした。(住友銀行90年史P.672)もし、安宅産業を倒産させていたら、住友銀行の損害は約830億円以下に止まっていた筈です。
 伊藤忠商事との合併交渉、伊藤忠商事が承継する商権・人員の範囲、散逸する商権の確保、安宅産業の人員整理、残余の事業の継続・整理等をメインバンクが一手に引き受けたため、巷間安宅産業の生体解剖だと酷評されました。
 安宅産業の倒産を防いだ結果、住友銀行は1977年9月末の決算で、安宅産業およびATCに対する貸付金のうち1,132億円を償却しました。1975年9月末の貸出金残高比約300億円のプラスです。
 更に、前回書きましたように、伊藤忠に継承されない関係会社株式・不動産・美術品(安宅コレクション)などの不稼動資産を移し、管理・精算を行う受け皿会社として設立したエーシー産業について、1993年精算終了までに住友銀行は676億円を償却しました。貸出金利息の棚上げ分を合算すると住友銀行の経済的な負担額は2,000億円を上回ったと考えられます。1975年9月末の住友銀行の安宅産業に対する貸出金残高対比2.4倍、1,170億円のプラスです。一方下位取引銀行、外国銀行、一般債権者の債権は全額決済されました。 メインバンクとして、これほど過酷な負担をしたケースは他にあるのか、私は寡聞にして知りません。
 1975年12月7日、毎日新聞が安宅アメリカの多額の焦げ付きをスクープした時点で、安宅産業が自力による再建は既に不可能な状態にあったということはメインバンク・大蔵省・日本銀行以外は誰も知らないことでした。勿論伊藤忠商事も世の中も。
 安宅産業が倒産したら、あたかも昭和初期の経済恐慌のような事態となることが必至の状況であり、住友銀行他メインバンクはこうした事態から生ずる社会的混乱を回避することが社会の公器たる金融機関の使命であるとの認識に立って、メインバンクとしての努力を行った訳ですが、そこに至る経緯は世の中には全く知られていないと思います。
「住友銀行90年史」、「ある総合商社の挫折」を読んでこの間の経緯を理解している人がいるとは到底思えません。
 貸出金償却の他にも、安宅産業へ出向した12名に加え、住友銀行では、1975年12月早々、安宅産業問題を一般業務から切離して副頭取磯田一郎(後に頭取)の担当とし、磯田副頭取の統括の下に、常務取締役樋口広太郎はじめ、本店営業部長・企画部長・融資第一部長・調査第二部長・国際管理部長らを動員して特別チームを編成し、この問題に取り組む緊急体制を整えました。1975年には安宅問題担当部として融資第三部を設置しています。これらの部門の人件費・経費の負担もあります。
 さらに、伊藤忠商事の継承しない纖維・木材・建材・マンション建設販売・不動産開発部門および農産部門の一部などが切り放なされて、安宅纖維・安宅建材・安宅木材・安宅地所・安宅農水産などが発足しましたが、これらの会社にも住友銀行から人材が派遣されました。私の知っている同僚で遠くアメリカの僻地まで赴任して、安宅産業の事業の整理にあたった人もいます。こうしたことも考えれば、住友銀行の負担は容易ならざるものであったと思います。
 これだけのことを行いながら、住友銀行の銀行業務は他行に負けないで整斉と行われていました。後で述べますが、「住友銀行の問題企業に対する処理能力は十分にある。」と一般行員は経営陣を信頼していましたから、安宅産業処理に対する住友銀行行員の不安は皆無で、志氣の低下もなかったと私は断言出来ます。
 私は当時岐阜支店長をしていました。支店の向かい角に岐阜信用金庫の本店があり、ある時岐阜信用金庫の融資担当役員から、「割引いていた安宅産業の手形が全て決済されたので地場の纖維業界をはじめ、当金庫も非常に助かりました。」とお礼を言われ、こういうことだったのかと自行の行ったことの意味を改めて実感しました。
 1975年12月の安宅アメリカの多額の焦げ付きのスクープ後、主力2行から安宅産業の全取引銀行に対して従前通リの取引継続を要請しました。安宅産業への新規貸増しは住友・協和・住友信託・東京・三菱・三井の上位取引6行が支援することで合意し、1976年3月から6行による協調融資が実行され、国際的な信用不安や安宅倒産という最悪の事態は回避されました。
 企業の危機に際してメインバンクの支援方針の表明は当時は必要不可欠なことでした。今日では、必ずしもそうではないように思われます。
 「ある総合商社の挫折」の記述の中に、1976年1月に伊藤忠との合併に反対し、自主再建を唱えて結成された安宅労組に安宅ファミリーから労組発足のお祝いが届けられたという話が書かれています。「伊藤忠との合併により安宅ファミリーが追放されることに対する考慮だと思われ、労組はお祝いの受取りを断った。」と記述されています。安宅ファミリーはその時点で、安宅産業の自主再建が可能だと思っていたのか。安宅産業の現状に対する安宅ファミリーの認識は、誠に如何なものかと思わせるエピソードだと思います。
 企業の危機に際し、メインバンクが自行の損失の増大を覚悟の上で支援を継続し、企業の破綻を回避したということについて、現在であれば外国人の株主などから異議が出るかも知れません。私の記憶する限り、当時メインバンクの損失に対する世の中や株主からの批判はありませんでした。ましてやメインバンクとして出過ぎたことをしたという批判もありませんでした。多分世の中や株主は今回書いたような事実をはっきり認識していなかったのだと思います。
 前にも引用しましたが、「ある総合商社の挫折」の「まえがき」には、『我々は、この衝撃的な出来事を一私企業の悲劇としてだけでなく、日本経済の転換期に起きた極めて象徴的な経済事件として捉えたいと考えた。(中略)死に体の安宅産業をいかに影響少なく消滅させるか、それが政府.日銀を巻き込んだ、「日本株式会社」の総力戦の下で行われた企業解体の実態であった。』と記述されています。
 「ジャパン アズ ナンバーワン」という本が出版されたのは1979年です。まだ国際的信用に乏しかった「日本株式会社」としては、メインバンクに頼って、安宅産業をいかに影響少なく消滅させるかの総力戦を行ったのだと思います。
 私は、住友銀行はじめメインバンクは「企業の社会的責任」を果たしたと思います。

② メインバンクのガバナンスの限界について
 住友銀行90年史P.669には、住友銀行の頭取堀田庄三の勧奨による住友商事と安
宅産業の合併が安宅家の反対により実現しなかったことについて、「この事実は、合併を勧奨した堀田にとって、返す返すも残念なことであった。もし住友商事との合併が成立していたならば、今回のような事態は起きなかったであろうし、安宅産業にとっても不幸な結末を招くことはなかったにちがいない。」と記述されています。
 通常社史には意見は書かれないことが多いと思いますが、堀田頭取に取っても、また多額の追加損失を負担した住友銀行に取っても切実な思いだったのだと思います。
 自己資本が少ない時代、企業の発展のためには銀行から融資を受けるのが不可欠の時代にあって、メインバンクの意見は企業に取って避けて通れないものでしたが、創業家の威光で会社を私物化しているような場合は、忠告が無視されます。メインバンクのガバナンスの限界と言えます。しかし、それだけに結果として当該企業が破綻に瀕した場合には創業家の責任が大きいと言えます。
 コーポレート・ガバナンスを考える場合、現在はメインバンクのガバナンスは殆ど存在しないと思います。しかし、同時に経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書」に言う、「メインバンクによるリスクファイナンス機能も提供される度合いや実現性が低下してきている点に留意する必要がある。」と私は思います。
 メインバンクが苦言を呈さない(或いは呈する能力が無くなっている)現状では、企業自体がリスクファイナンスの重要性を自覚し、自らリスクファイナンス対策を講ずべきだと思います。
 「リスクファイナンス研究会報告書」の言う、『「いざという時は、メインバンクに資金を手当てしてもらえる」と考えている企業も数多く見られるが、これまで提供されてきたメインバンクによるリスクファイナンス機能は、その提供される度合いや実現性が低下してきている点に留意する必要がある。』という事実を企業はシリアスに考えるべきだと思います。
 なお、当時住友銀行からは元役員が安宅産業の副社長になっていました。メインバンクとして経営の実態を知らなかったでは済みません。副社長でも経営の実態を隠されていれば判らない場合もあるとは思いますが世間的には通用しません。
 私は派遣されていた元役員の方が、国際業務畑のご出身で、後で書きます住友銀行の伝統である融資・企業調査畑の方でなかったことも残念なことだったと思います。当該企業に勤務し役員会に出席していれば、例えつんぼ桟敷にあったとしても、企業の管理状況は見える筈だと私は思います。役員の派遣も諸刃の刃です。

③ 企業経営私物化の弊害
 前に書きましたように、1966年に住友銀行の頭取堀田庄三は、「安宅産業の人材の
欠乏と安宅家との癒着関係(創業者安宅弥吉はすでに亡く、2代目英一の時代に入り、株式を公開し、安宅家の持ち株は極めて僅少になっていて、同社は安宅家の持ち物では無くなっていたにも関わらず前近代的な内部事情が解消されていなかった)を憂慮して住友商事との合併を勧奨しました。
 「ある総合商社の挫折」P.70には,『安宅産業の創業者弥吉翁の長男であり、安宅家の当主である英一氏は持株こそ安宅産業全株式の2%にも満たなかったが、「安宅産業は安宅家の会社であるという考えの持主」で、それに対し社員のほうもあえて異議を挟まないというのが、安宅産業独特の社風でもあった。(中略)その英一氏からみれば番頭に過ぎない社長が、安宅家の意向も確かめず進めた住友商事との合併構想は英一氏の逆鱗に触れるところとなった。』と記述されています。「堀田頭取が,安宅産業の前途に不安を抱いた理由の一つはこうした責任・権限がはっきりしないまま行われる安宅家の経営への介入と公私混同の行動にあった。」と同書P.71に記述されています。メインバンクの忠告を、事実上経営の実権を握る創業家に拒否され、社長が従えば、それ以上はメインバンクも介入出来ない訳です。

④ 東洋陶磁美術館
 高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝 2件、国の重要文化財 13件
を含む安宅コレクションは、安宅産業株式会社および創業家二代目の安宅英一氏が社業の傍ら東洋陶磁を収集したものです。安宅産業の破綻後、安宅産業の資産として、先に述べたエーシー産業に安宅コレクションも引き継がれました。
 貴重で体系的なコレクションの散逸を惜しむ各方面の意見により、1980年(昭和55年)3月に住友銀行頭取磯田一郎は公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断し、大阪市への寄贈を決めました。住友銀行を中心とした住友グループ21社の協力のもと、965件、約1000点の買い取り資金総額152億円が1982年(昭和57年)3月までの2年間に大阪市の文化振興基金に寄付され、美術館の建築資金18億円は、基金の定期預金の利息で賄われました。
 〇東洋陶磁美術館



 大阪の中之島公会堂の前にある東洋陶磁美術館は,私のような古い住友銀行員にとっては痛恨の事態のモニュメントです。
 私は安宅産業の破綻の責任は、挙げて安宅家にあると思います。

 次回からは,私も所属した住友銀行の問題企業に対する処理能力の原泉である調査部
の企業調査のことについて書きます。


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「リスクとキャッシュフロー」について  ②

2013年8月1日木曜日 | ラベル: |

2.メインバンクによるリスクファイナンス機能の例 ・
 安宅産業のケース  ―メインバンクとしての公共的使命―

(5)伊藤忠商事との合併の軌跡 ②
 1976年(昭和51年)1月17日「伊藤忠商事と安宅産業は全面的な業務提携に入る。」旨が発表されると、同日住友銀行から最高顧問に常務取締役(後に頭取)小松康他12名が派遣され、協和銀行からも酒井良彦取締役が派遣されました。伊藤忠商事からはやや遅れ、3月に松井弥之助最高顧問(前タキロン社長)他11名のスタフの派遣が決まりました。
 伊藤忠商事との業務提携を機に、主力2行から安宅の全取引銀行に対して従前通リの取引継続を要請、安宅産業への新規貸増しは住友・協和・住友信託・東京・三菱・三井の上位取引6行が支援することで合意し、1976年3月から6行による協調融資が実行され、国際的な信用不安や安宅倒産などの最悪の事態はとりあえず回避されました
 安宅の経営陣は、経営危機の責任をとって1976年6月に辞任、安宅産業会長に松井弥之助(前タキロン社長)、社長に小松康(住友銀行常務)、副社長に田中秀幸(協和銀行常務取締役)が6月末の総会終了と同時に正式に就任しました。
 一方、安宅産業はNRC関係の債権・債務を1976年1月31日にATC(アトランティック・トレーディング・コーポレーション)に移管し、ATCはNRCと子会社のPRC両社の破産を申し立て、ニューファウンドランド州裁判所で1976年3月両社の破産宣告が下されました。
 「この後、安宅産業の財務内容の整理、希望退職者の募集、主力2行による再就職先の斡旋、伊藤忠商事と両行の間で合併で引続がれるべき商権や社員の人数を巡る意見調整など、当事者には、かって経験したことのない困難な仕事が続いたが、ここでは立ち入らない。」と「住友銀行90年史」に記述されています。
 「ある総合商社の挫折」の記述によれば、住友銀行は伊藤忠商事に依頼を持ちかけた段階で「迷惑は一切かけない。」と、安宅産業再建に伴う損失はすべて銀行側が被ると内外に公約していました。
 伊藤忠商事側としては合併のためには、安宅産業自体の経営が黒字基調に回復すること、関係会社の内容・営業成績の見通し、労使関係の正常化などが前提となるが、なかなか判然としない。安宅産業との合併はメリットどころ伊藤忠商事に大きな負担を及ぼしかねないかもしれない。しかし、永年のメインバンクの申し出であり、無碍には出来ない。という悩みがありました。
 1976年8月には瀬島龍三伊藤忠商事副社長(当時)が伊藤忠商事側の最高責任者になりました。瀬島龍三氏は陸軍大学を主席で卒業した第2次世界大戦時の陸軍の参謀で、伊藤忠商事の発展に辣腕をふるったとされる人物です。
 住友銀行・伊藤忠商事間でシビアな交渉が続けられました。その間にも商権は消えて行きます。文字通リ「当事者には、かって経験したことのない困難な仕事」が続いた後、合併に関する伊藤忠商事と銀行団との意見調整は1976年末に漸く終り、12月29日伊藤忠商事と安宅産業は合併覚書に調印しました。
 伊藤忠商事の継承しない纖維・木材・建材・マンション建設販売・不動産開発部門および農産部門の一部などの切り放しが開始され、安宅纖維・安宅建材(いずれも1976年12月設立)・安宅木材・安宅地所・安宅農水産(いずれも1977年月5月設立)などが発足しました。纖維貿易部門と安宅纖維は伊藤萬に営業譲渡され、さらに伊藤忠商事に継承されない関係会社株式・不動産・美術品などの不稼動資産を移し、管理・精算を行う受け皿会社としてエーシー産業が1977年4月に設立されました。
 1977年5月31日両社は合併契約書に調印しました。「合併期日は10月1日、合併比率は5:1、安宅の債務超過額(1977年3月末で1,160億円)は金融機関の協力を得て、合併期日までに解消する。」
 1977年6月末の両社の株主総会の承認を経て、10月1日安宅産業は伊藤忠商事に合併されました。伊藤忠商事に継承された商権は鉄鋼・化学品などを中心に半期3,000億円、従業員は1,058人が引繼がれました。NRC問題の顕在化から1年10ヶ月、関係者にとっては苦しく長い道のりでした。

(6)貸付金の償却
 安宅産業の合併にあたっては、伊藤忠商事、安宅産業の一般債権者、地方銀行など主要取引銀行以外の国内金融機関、外国の銀行には一切負担をかけないことが基本方針でした。国内・海外を通して信用不安を起こさないという当初からの方針を貫徹するためです。
 この見地から、主力2行・準主力4行・これにつぐ上位取引銀行10行が協力し、合計16行の銀行団が安宅産業およびATCに生じた総額約2,000億円の損失を全面的に負担するという異例の措置が講じられました。
 住友銀行は、伊藤忠商事・安宅産業の合併前日の1977年9月末の決算で、安宅産業およびATCに対する貸付金のうち1,132億円を一挙に償却しました。
 決算書では、これを特別損失に計上し、同期の期間利益の一部391億円のほか、貸倒引当金(有税分)の取り崩し276億円、株式売却益262億円、および法人税などの還付金203億円で償却を補填しました。このうち株式売却益は、住友銀行のもつ当時の株式含み益総額約4,000億円の約6%に相当しています。また同期末(償却後)の広義自己資本は、前期末に比べて239億円減少し,4,379億円になりました。
 「日本経済の混乱回避のためとは言え、永年にわたって築き上げられてきた内部蓄積の一部に手をつけたことは残念な出来事であった。しかし、この蓄積があったからこそ、かってない異常な事態に直面して、主力銀行としての公共的使命の達成に全力を尽くすことができたのである。主力銀行が,自行の債権保全だけを考えて行動したとすれば、おそらく安宅問題の解決はありえなかったであろう。」 と「住友銀行90年史」は書いています。
 下記は、1977年(昭和52年)12月の定時株主総会開催にあたって、住友銀行の招集通知書に添付された書状です。  

「謹啓 時下益々御清祥のこととお喜び申し上げます。
(中略)安宅産業の問題につきましてご説明申し上げるとともに、同問題の処理につきましてご理解を賜りたく、お願い申し上げます。
 ご高承のように、カナダのニューファウンドランド・リファイニング・カンパニー・リミテッドに対する安宅アメリカ株式会社の債権が長期滞留し、これがきっかけとなって昭和50年末以降表面化いたしました安宅産業株式会社の経営危機と信用不安は、単に一企業の問題だけではなく、日本経済全体ひいてはわが国の国際信用にもかかわる深刻な問題でございました。
 すなわち、当時の同社の受けていた信用供与は約1兆円にのぼり、取引先総数は約35,000社、取引金融機関は外国銀行を含め227を数え、また同社の関連会社は国内162社、海外62社、それらの取引先は国内はもとより全世界に及び、関連会社を含めた従業員数も約20,000人に達し、もし同社が倒産したとなれば、あたかも昭和初期の経済恐慌のような事態となるのが必至の状況でございました
 当行はかかる事態から生ずる社会的混乱を回避することが社会の公器たる金融機関の使命であるとの認識に立って、安宅産業株式会社と伊藤忠商事株式会社との合併が最善の方途であると考え、主取引銀行として懸命の努力を重ねてまいりました。伊藤忠商事株式会社と安宅産業株式会社との合併は、取引金融機関および新日本製鉄株式会社をはじめとする取引先のご協力を得、また関係ご当局のご支援のもと、所定の手続きを経て去る10月1日を合併期日として実現いたす運びとなりました。
 本件につきましては、問題発生の当初より、株主の皆様には少なからずご心配をおかけし、また心ならずも世間をお騒がせする結果となりましたことを甚だ遺憾に存じております。日本経済の混乱回避のためとはいえ、安宅産業株式会社関係の債権につき(中略)多額の償却を行い、これがために貸倒引当金の取崩し、株式の売却等過去の蓄積の一部を取崩さざるをえなくなったことにつき、衷心よりお詫び申し上げる次第でございます。
 今後は役職員一同一層心を新たにして業務に精勵し、出来るだけ速やかに業績の回復を図り、株主の皆様のご負託にお応えすべく最善の努力を致す所存でございます。(後略)」

【 所感 】
以上が、安宅産業の救済の概略です。
 私は1975年当時は住友銀行亀戸支店長でした。1973年(昭和48年)10月1日に初めて支店長になり、勇躍亀戸支店に赴任した直後の10月6日に第4次中東戦争が勃発し、原油公示価格は1バレル3.01ドルから5.12ドルへ上昇し、1974年1月からは11.65ドルへ上がりました。石油価格の高騰という第1次オイルショックは、日本経済に深刻な影響を与えました。公共事業の大幅な抑制や、消費者物価指数が1974年には23%上昇し「狂乱物価」といわれるなど、新米支店長として経済情勢の急変に大変うろたえたことを今も鮮明に記憶しています。
 第1次オイルショックによる原油価格の高騰がNRCの事業を不振に陥れ、そのことが引き金となって安宅産業の危機が顕在化した訳ですが、この間の経緯については、
①CSR(企業の社会的責任)の議論がまだあまり行われていなかった1970年代後半
 に、メインバンクとしての公共的使命を果たすべく、多額の負担の下に安宅産業の
 救済を行った事の可否、
②金融機関と融資先企業の関係は如何にあるべきか。メインバンクとしてのガバナンス
 の限界。
③企業経営私物化の弊害。
など、考えせられことが多々あります。
次回は住友銀行の支店長として勤務していた当時の私の実感も加えて、安宅産業のケースについての私の意見を述べたいと思います。


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