「リスクとキャッシュフロー」について  ②

2013年8月1日木曜日 | ラベル: |

2.メインバンクによるリスクファイナンス機能の例 ・
 安宅産業のケース  ―メインバンクとしての公共的使命―

(5)伊藤忠商事との合併の軌跡 ②
 1976年(昭和51年)1月17日「伊藤忠商事と安宅産業は全面的な業務提携に入る。」旨が発表されると、同日住友銀行から最高顧問に常務取締役(後に頭取)小松康他12名が派遣され、協和銀行からも酒井良彦取締役が派遣されました。伊藤忠商事からはやや遅れ、3月に松井弥之助最高顧問(前タキロン社長)他11名のスタフの派遣が決まりました。
 伊藤忠商事との業務提携を機に、主力2行から安宅の全取引銀行に対して従前通リの取引継続を要請、安宅産業への新規貸増しは住友・協和・住友信託・東京・三菱・三井の上位取引6行が支援することで合意し、1976年3月から6行による協調融資が実行され、国際的な信用不安や安宅倒産などの最悪の事態はとりあえず回避されました
 安宅の経営陣は、経営危機の責任をとって1976年6月に辞任、安宅産業会長に松井弥之助(前タキロン社長)、社長に小松康(住友銀行常務)、副社長に田中秀幸(協和銀行常務取締役)が6月末の総会終了と同時に正式に就任しました。
 一方、安宅産業はNRC関係の債権・債務を1976年1月31日にATC(アトランティック・トレーディング・コーポレーション)に移管し、ATCはNRCと子会社のPRC両社の破産を申し立て、ニューファウンドランド州裁判所で1976年3月両社の破産宣告が下されました。
 「この後、安宅産業の財務内容の整理、希望退職者の募集、主力2行による再就職先の斡旋、伊藤忠商事と両行の間で合併で引続がれるべき商権や社員の人数を巡る意見調整など、当事者には、かって経験したことのない困難な仕事が続いたが、ここでは立ち入らない。」と「住友銀行90年史」に記述されています。
 「ある総合商社の挫折」の記述によれば、住友銀行は伊藤忠商事に依頼を持ちかけた段階で「迷惑は一切かけない。」と、安宅産業再建に伴う損失はすべて銀行側が被ると内外に公約していました。
 伊藤忠商事側としては合併のためには、安宅産業自体の経営が黒字基調に回復すること、関係会社の内容・営業成績の見通し、労使関係の正常化などが前提となるが、なかなか判然としない。安宅産業との合併はメリットどころ伊藤忠商事に大きな負担を及ぼしかねないかもしれない。しかし、永年のメインバンクの申し出であり、無碍には出来ない。という悩みがありました。
 1976年8月には瀬島龍三伊藤忠商事副社長(当時)が伊藤忠商事側の最高責任者になりました。瀬島龍三氏は陸軍大学を主席で卒業した第2次世界大戦時の陸軍の参謀で、伊藤忠商事の発展に辣腕をふるったとされる人物です。
 住友銀行・伊藤忠商事間でシビアな交渉が続けられました。その間にも商権は消えて行きます。文字通リ「当事者には、かって経験したことのない困難な仕事」が続いた後、合併に関する伊藤忠商事と銀行団との意見調整は1976年末に漸く終り、12月29日伊藤忠商事と安宅産業は合併覚書に調印しました。
 伊藤忠商事の継承しない纖維・木材・建材・マンション建設販売・不動産開発部門および農産部門の一部などの切り放しが開始され、安宅纖維・安宅建材(いずれも1976年12月設立)・安宅木材・安宅地所・安宅農水産(いずれも1977年月5月設立)などが発足しました。纖維貿易部門と安宅纖維は伊藤萬に営業譲渡され、さらに伊藤忠商事に継承されない関係会社株式・不動産・美術品などの不稼動資産を移し、管理・精算を行う受け皿会社としてエーシー産業が1977年4月に設立されました。
 1977年5月31日両社は合併契約書に調印しました。「合併期日は10月1日、合併比率は5:1、安宅の債務超過額(1977年3月末で1,160億円)は金融機関の協力を得て、合併期日までに解消する。」
 1977年6月末の両社の株主総会の承認を経て、10月1日安宅産業は伊藤忠商事に合併されました。伊藤忠商事に継承された商権は鉄鋼・化学品などを中心に半期3,000億円、従業員は1,058人が引繼がれました。NRC問題の顕在化から1年10ヶ月、関係者にとっては苦しく長い道のりでした。

(6)貸付金の償却
 安宅産業の合併にあたっては、伊藤忠商事、安宅産業の一般債権者、地方銀行など主要取引銀行以外の国内金融機関、外国の銀行には一切負担をかけないことが基本方針でした。国内・海外を通して信用不安を起こさないという当初からの方針を貫徹するためです。
 この見地から、主力2行・準主力4行・これにつぐ上位取引銀行10行が協力し、合計16行の銀行団が安宅産業およびATCに生じた総額約2,000億円の損失を全面的に負担するという異例の措置が講じられました。
 住友銀行は、伊藤忠商事・安宅産業の合併前日の1977年9月末の決算で、安宅産業およびATCに対する貸付金のうち1,132億円を一挙に償却しました。
 決算書では、これを特別損失に計上し、同期の期間利益の一部391億円のほか、貸倒引当金(有税分)の取り崩し276億円、株式売却益262億円、および法人税などの還付金203億円で償却を補填しました。このうち株式売却益は、住友銀行のもつ当時の株式含み益総額約4,000億円の約6%に相当しています。また同期末(償却後)の広義自己資本は、前期末に比べて239億円減少し,4,379億円になりました。
 「日本経済の混乱回避のためとは言え、永年にわたって築き上げられてきた内部蓄積の一部に手をつけたことは残念な出来事であった。しかし、この蓄積があったからこそ、かってない異常な事態に直面して、主力銀行としての公共的使命の達成に全力を尽くすことができたのである。主力銀行が,自行の債権保全だけを考えて行動したとすれば、おそらく安宅問題の解決はありえなかったであろう。」 と「住友銀行90年史」は書いています。
 下記は、1977年(昭和52年)12月の定時株主総会開催にあたって、住友銀行の招集通知書に添付された書状です。  

「謹啓 時下益々御清祥のこととお喜び申し上げます。
(中略)安宅産業の問題につきましてご説明申し上げるとともに、同問題の処理につきましてご理解を賜りたく、お願い申し上げます。
 ご高承のように、カナダのニューファウンドランド・リファイニング・カンパニー・リミテッドに対する安宅アメリカ株式会社の債権が長期滞留し、これがきっかけとなって昭和50年末以降表面化いたしました安宅産業株式会社の経営危機と信用不安は、単に一企業の問題だけではなく、日本経済全体ひいてはわが国の国際信用にもかかわる深刻な問題でございました。
 すなわち、当時の同社の受けていた信用供与は約1兆円にのぼり、取引先総数は約35,000社、取引金融機関は外国銀行を含め227を数え、また同社の関連会社は国内162社、海外62社、それらの取引先は国内はもとより全世界に及び、関連会社を含めた従業員数も約20,000人に達し、もし同社が倒産したとなれば、あたかも昭和初期の経済恐慌のような事態となるのが必至の状況でございました
 当行はかかる事態から生ずる社会的混乱を回避することが社会の公器たる金融機関の使命であるとの認識に立って、安宅産業株式会社と伊藤忠商事株式会社との合併が最善の方途であると考え、主取引銀行として懸命の努力を重ねてまいりました。伊藤忠商事株式会社と安宅産業株式会社との合併は、取引金融機関および新日本製鉄株式会社をはじめとする取引先のご協力を得、また関係ご当局のご支援のもと、所定の手続きを経て去る10月1日を合併期日として実現いたす運びとなりました。
 本件につきましては、問題発生の当初より、株主の皆様には少なからずご心配をおかけし、また心ならずも世間をお騒がせする結果となりましたことを甚だ遺憾に存じております。日本経済の混乱回避のためとはいえ、安宅産業株式会社関係の債権につき(中略)多額の償却を行い、これがために貸倒引当金の取崩し、株式の売却等過去の蓄積の一部を取崩さざるをえなくなったことにつき、衷心よりお詫び申し上げる次第でございます。
 今後は役職員一同一層心を新たにして業務に精勵し、出来るだけ速やかに業績の回復を図り、株主の皆様のご負託にお応えすべく最善の努力を致す所存でございます。(後略)」

【 所感 】
以上が、安宅産業の救済の概略です。
 私は1975年当時は住友銀行亀戸支店長でした。1973年(昭和48年)10月1日に初めて支店長になり、勇躍亀戸支店に赴任した直後の10月6日に第4次中東戦争が勃発し、原油公示価格は1バレル3.01ドルから5.12ドルへ上昇し、1974年1月からは11.65ドルへ上がりました。石油価格の高騰という第1次オイルショックは、日本経済に深刻な影響を与えました。公共事業の大幅な抑制や、消費者物価指数が1974年には23%上昇し「狂乱物価」といわれるなど、新米支店長として経済情勢の急変に大変うろたえたことを今も鮮明に記憶しています。
 第1次オイルショックによる原油価格の高騰がNRCの事業を不振に陥れ、そのことが引き金となって安宅産業の危機が顕在化した訳ですが、この間の経緯については、
①CSR(企業の社会的責任)の議論がまだあまり行われていなかった1970年代後半
 に、メインバンクとしての公共的使命を果たすべく、多額の負担の下に安宅産業の
 救済を行った事の可否、
②金融機関と融資先企業の関係は如何にあるべきか。メインバンクとしてのガバナンス
 の限界。
③企業経営私物化の弊害。
など、考えせられことが多々あります。
次回は住友銀行の支店長として勤務していた当時の私の実感も加えて、安宅産業のケースについての私の意見を述べたいと思います。