「リスクとキャッシュフロー」について ③

2013年8月10日土曜日 | ラベル: |

2.メインバンクによるリスクファイナンス機能の例 ・
 安宅産業のケース  ―メインバンクとしての公共的使命―

(6)安宅産業のケースに対する私見
① メインバンクの対応としてそれで良かったのか。
 安宅産業の損失は住友銀行・協和銀行他16行で負担しました。住友銀行はメインバンクとして最大の負担をした上、その後エーシー産業の損失も負担しました。
 1975年9月末の住友銀行の安宅産業に対する貸出金は670億円、安宅アメリカに対する4貸出しは5,100萬ドル(1ドル307円として、157億円)でした。(住友銀行90年史P.672)もし、安宅産業を倒産させていたら、住友銀行の損害は約830億円以下に止まっていた筈です。
 伊藤忠商事との合併交渉、伊藤忠商事が承継する商権・人員の範囲、散逸する商権の確保、安宅産業の人員整理、残余の事業の継続・整理等をメインバンクが一手に引き受けたため、巷間安宅産業の生体解剖だと酷評されました。
 安宅産業の倒産を防いだ結果、住友銀行は1977年9月末の決算で、安宅産業およびATCに対する貸付金のうち1,132億円を償却しました。1975年9月末の貸出金残高比約300億円のプラスです。
 更に、前回書きましたように、伊藤忠に継承されない関係会社株式・不動産・美術品(安宅コレクション)などの不稼動資産を移し、管理・精算を行う受け皿会社として設立したエーシー産業について、1993年精算終了までに住友銀行は676億円を償却しました。貸出金利息の棚上げ分を合算すると住友銀行の経済的な負担額は2,000億円を上回ったと考えられます。1975年9月末の住友銀行の安宅産業に対する貸出金残高対比2.4倍、1,170億円のプラスです。一方下位取引銀行、外国銀行、一般債権者の債権は全額決済されました。 メインバンクとして、これほど過酷な負担をしたケースは他にあるのか、私は寡聞にして知りません。
 1975年12月7日、毎日新聞が安宅アメリカの多額の焦げ付きをスクープした時点で、安宅産業が自力による再建は既に不可能な状態にあったということはメインバンク・大蔵省・日本銀行以外は誰も知らないことでした。勿論伊藤忠商事も世の中も。
 安宅産業が倒産したら、あたかも昭和初期の経済恐慌のような事態となることが必至の状況であり、住友銀行他メインバンクはこうした事態から生ずる社会的混乱を回避することが社会の公器たる金融機関の使命であるとの認識に立って、メインバンクとしての努力を行った訳ですが、そこに至る経緯は世の中には全く知られていないと思います。
「住友銀行90年史」、「ある総合商社の挫折」を読んでこの間の経緯を理解している人がいるとは到底思えません。
 貸出金償却の他にも、安宅産業へ出向した12名に加え、住友銀行では、1975年12月早々、安宅産業問題を一般業務から切離して副頭取磯田一郎(後に頭取)の担当とし、磯田副頭取の統括の下に、常務取締役樋口広太郎はじめ、本店営業部長・企画部長・融資第一部長・調査第二部長・国際管理部長らを動員して特別チームを編成し、この問題に取り組む緊急体制を整えました。1975年には安宅問題担当部として融資第三部を設置しています。これらの部門の人件費・経費の負担もあります。
 さらに、伊藤忠商事の継承しない纖維・木材・建材・マンション建設販売・不動産開発部門および農産部門の一部などが切り放なされて、安宅纖維・安宅建材・安宅木材・安宅地所・安宅農水産などが発足しましたが、これらの会社にも住友銀行から人材が派遣されました。私の知っている同僚で遠くアメリカの僻地まで赴任して、安宅産業の事業の整理にあたった人もいます。こうしたことも考えれば、住友銀行の負担は容易ならざるものであったと思います。
 これだけのことを行いながら、住友銀行の銀行業務は他行に負けないで整斉と行われていました。後で述べますが、「住友銀行の問題企業に対する処理能力は十分にある。」と一般行員は経営陣を信頼していましたから、安宅産業処理に対する住友銀行行員の不安は皆無で、志氣の低下もなかったと私は断言出来ます。
 私は当時岐阜支店長をしていました。支店の向かい角に岐阜信用金庫の本店があり、ある時岐阜信用金庫の融資担当役員から、「割引いていた安宅産業の手形が全て決済されたので地場の纖維業界をはじめ、当金庫も非常に助かりました。」とお礼を言われ、こういうことだったのかと自行の行ったことの意味を改めて実感しました。
 1975年12月の安宅アメリカの多額の焦げ付きのスクープ後、主力2行から安宅産業の全取引銀行に対して従前通リの取引継続を要請しました。安宅産業への新規貸増しは住友・協和・住友信託・東京・三菱・三井の上位取引6行が支援することで合意し、1976年3月から6行による協調融資が実行され、国際的な信用不安や安宅倒産という最悪の事態は回避されました。
 企業の危機に際してメインバンクの支援方針の表明は当時は必要不可欠なことでした。今日では、必ずしもそうではないように思われます。
 「ある総合商社の挫折」の記述の中に、1976年1月に伊藤忠との合併に反対し、自主再建を唱えて結成された安宅労組に安宅ファミリーから労組発足のお祝いが届けられたという話が書かれています。「伊藤忠との合併により安宅ファミリーが追放されることに対する考慮だと思われ、労組はお祝いの受取りを断った。」と記述されています。安宅ファミリーはその時点で、安宅産業の自主再建が可能だと思っていたのか。安宅産業の現状に対する安宅ファミリーの認識は、誠に如何なものかと思わせるエピソードだと思います。
 企業の危機に際し、メインバンクが自行の損失の増大を覚悟の上で支援を継続し、企業の破綻を回避したということについて、現在であれば外国人の株主などから異議が出るかも知れません。私の記憶する限り、当時メインバンクの損失に対する世の中や株主からの批判はありませんでした。ましてやメインバンクとして出過ぎたことをしたという批判もありませんでした。多分世の中や株主は今回書いたような事実をはっきり認識していなかったのだと思います。
 前にも引用しましたが、「ある総合商社の挫折」の「まえがき」には、『我々は、この衝撃的な出来事を一私企業の悲劇としてだけでなく、日本経済の転換期に起きた極めて象徴的な経済事件として捉えたいと考えた。(中略)死に体の安宅産業をいかに影響少なく消滅させるか、それが政府.日銀を巻き込んだ、「日本株式会社」の総力戦の下で行われた企業解体の実態であった。』と記述されています。
 「ジャパン アズ ナンバーワン」という本が出版されたのは1979年です。まだ国際的信用に乏しかった「日本株式会社」としては、メインバンクに頼って、安宅産業をいかに影響少なく消滅させるかの総力戦を行ったのだと思います。
 私は、住友銀行はじめメインバンクは「企業の社会的責任」を果たしたと思います。

② メインバンクのガバナンスの限界について
 住友銀行90年史P.669には、住友銀行の頭取堀田庄三の勧奨による住友商事と安
宅産業の合併が安宅家の反対により実現しなかったことについて、「この事実は、合併を勧奨した堀田にとって、返す返すも残念なことであった。もし住友商事との合併が成立していたならば、今回のような事態は起きなかったであろうし、安宅産業にとっても不幸な結末を招くことはなかったにちがいない。」と記述されています。
 通常社史には意見は書かれないことが多いと思いますが、堀田頭取に取っても、また多額の追加損失を負担した住友銀行に取っても切実な思いだったのだと思います。
 自己資本が少ない時代、企業の発展のためには銀行から融資を受けるのが不可欠の時代にあって、メインバンクの意見は企業に取って避けて通れないものでしたが、創業家の威光で会社を私物化しているような場合は、忠告が無視されます。メインバンクのガバナンスの限界と言えます。しかし、それだけに結果として当該企業が破綻に瀕した場合には創業家の責任が大きいと言えます。
 コーポレート・ガバナンスを考える場合、現在はメインバンクのガバナンスは殆ど存在しないと思います。しかし、同時に経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書」に言う、「メインバンクによるリスクファイナンス機能も提供される度合いや実現性が低下してきている点に留意する必要がある。」と私は思います。
 メインバンクが苦言を呈さない(或いは呈する能力が無くなっている)現状では、企業自体がリスクファイナンスの重要性を自覚し、自らリスクファイナンス対策を講ずべきだと思います。
 「リスクファイナンス研究会報告書」の言う、『「いざという時は、メインバンクに資金を手当てしてもらえる」と考えている企業も数多く見られるが、これまで提供されてきたメインバンクによるリスクファイナンス機能は、その提供される度合いや実現性が低下してきている点に留意する必要がある。』という事実を企業はシリアスに考えるべきだと思います。
 なお、当時住友銀行からは元役員が安宅産業の副社長になっていました。メインバンクとして経営の実態を知らなかったでは済みません。副社長でも経営の実態を隠されていれば判らない場合もあるとは思いますが世間的には通用しません。
 私は派遣されていた元役員の方が、国際業務畑のご出身で、後で書きます住友銀行の伝統である融資・企業調査畑の方でなかったことも残念なことだったと思います。当該企業に勤務し役員会に出席していれば、例えつんぼ桟敷にあったとしても、企業の管理状況は見える筈だと私は思います。役員の派遣も諸刃の刃です。

③ 企業経営私物化の弊害
 前に書きましたように、1966年に住友銀行の頭取堀田庄三は、「安宅産業の人材の
欠乏と安宅家との癒着関係(創業者安宅弥吉はすでに亡く、2代目英一の時代に入り、株式を公開し、安宅家の持ち株は極めて僅少になっていて、同社は安宅家の持ち物では無くなっていたにも関わらず前近代的な内部事情が解消されていなかった)を憂慮して住友商事との合併を勧奨しました。
 「ある総合商社の挫折」P.70には,『安宅産業の創業者弥吉翁の長男であり、安宅家の当主である英一氏は持株こそ安宅産業全株式の2%にも満たなかったが、「安宅産業は安宅家の会社であるという考えの持主」で、それに対し社員のほうもあえて異議を挟まないというのが、安宅産業独特の社風でもあった。(中略)その英一氏からみれば番頭に過ぎない社長が、安宅家の意向も確かめず進めた住友商事との合併構想は英一氏の逆鱗に触れるところとなった。』と記述されています。「堀田頭取が,安宅産業の前途に不安を抱いた理由の一つはこうした責任・権限がはっきりしないまま行われる安宅家の経営への介入と公私混同の行動にあった。」と同書P.71に記述されています。メインバンクの忠告を、事実上経営の実権を握る創業家に拒否され、社長が従えば、それ以上はメインバンクも介入出来ない訳です。

④ 東洋陶磁美術館
 高麗・朝鮮時代の朝鮮陶磁、中国陶磁を中心に、国宝 2件、国の重要文化財 13件
を含む安宅コレクションは、安宅産業株式会社および創業家二代目の安宅英一氏が社業の傍ら東洋陶磁を収集したものです。安宅産業の破綻後、安宅産業の資産として、先に述べたエーシー産業に安宅コレクションも引き継がれました。
 貴重で体系的なコレクションの散逸を惜しむ各方面の意見により、1980年(昭和55年)3月に住友銀行頭取磯田一郎は公共機関に寄托することが最もふさわしいと判断し、大阪市への寄贈を決めました。住友銀行を中心とした住友グループ21社の協力のもと、965件、約1000点の買い取り資金総額152億円が1982年(昭和57年)3月までの2年間に大阪市の文化振興基金に寄付され、美術館の建築資金18億円は、基金の定期預金の利息で賄われました。
 〇東洋陶磁美術館



 大阪の中之島公会堂の前にある東洋陶磁美術館は,私のような古い住友銀行員にとっては痛恨の事態のモニュメントです。
 私は安宅産業の破綻の責任は、挙げて安宅家にあると思います。

 次回からは,私も所属した住友銀行の問題企業に対する処理能力の原泉である調査部
の企業調査のことについて書きます。