私の戦後70年 航空機の事故について ③

2015年9月6日日曜日 | ラベル: |

2015年3月29日(日)の「九段三丁目町会の防災訓練」の記事でご紹介した、九段三丁目町会会長の細内進様のご好意で、9月1日に靖国神社で行われた第91回「関東大震災神恩奉謝祭」に参列しました。
 「1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ今日も行われている。」と靖国神社百年史に記述されています。靖国神社も九段三丁目町会の会員です。
 当日は九段三丁目町会をはじめ近隣の町会の幹部の方々が集まられ、昇殿の上「関東大震災神恩奉謝祭」が執り行われました。
 第91回ということは1923年(大正12年)9月1日の翌年以降1回だけ休んだ(恐らく昭和20年敗戦の年だと思います)ということです。1923年(大正12年)9月1日以降、90年以上地元の方々が毎年関東大震災の教訓を思い出し、神恩に感謝しておられるわけで、地域の防災に取って大変意義のある催しだと深く感銘しました。

 2015年7月18日(土)のブログ「私の戦後70年 航空機の事故について①」の記事で、「私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。」と書きました。
  昭和36年10月、私の新婚旅行は京都でした。当時片道の航空券がひと月の給与と同じくらい高価だった時代ですが、私は往復とも飛行機を選びました。当時航空機の旅は少しばかり不安と隣り合わせで、親類からは「何も往復共飛行機にしなくても、せめて片道は鉄道にしたら」と言われましたが、私に取っては乗りたくてたまらなかった夢の実現でした。
 往路は米国のコンベア440メトロポリタン・客席数52席、Pratt&Whitney のエンジン2基を備えたプロペラ機で鈴鹿の上空で大きく揺れました。

 帰路はオランダ・フォッカー社のジェットブロップ機フレンドシップ・客席数40席でした。帰路のフレンドシップの乗り心地の良さは今も鮮やかに思い出されます。

 
当時新婚旅行で搭乗すると申し出ますと、「寿搭乗券」が綺麗な袋に入れて発行されました。

そして、往復とも機長がチケットにサインをして下さいました。
 新婚旅行から43年、平成16年(2004年))12月11日全日空の知人のご好意で、帰路にサインをして下さった吉池庄三元機長様に、羽田空港で夫婦でお目に掛かることが出来ました。再度下記のサインを頂きました。


 吉池元機長様は、戦争中15歳で陸軍航空隊に入隊、飛行兵として戦われ、同期の88人の戦友は24人になりました。戦後独学で操縦士免許を取得、再びパイロットになられました。、昭和30年全日空の前身「日本ヘリコプター」に入社され、全日空の歴史と共に多くの飛行機を操縦された方です。
 これまでのお話は単に私の思い出話に過ぎませんが、吉池元機長様から頂いたお手紙の中身が重要です。
 「二伸・同封申し上げまましたもの(フレンドシップのネクタイピンです)ご存じの

こととは思いますが、全日空に25機導入致しましたフレンドシップの終航に当たり記念として作製、就航乗務した多くの乗員が使用致しているもので、粗品ではございますがお届け申し上げます。
 ご存じのこととは思いますが、此の25機は当時の全日空に「起死回生」の勢いを与え、且つ十余年間運航に1機の損傷も生ぜず、再び外国の大空に快翔の機会を得たことは、全日空の整備陣、そして運航の陣営として大変誇りに思っております機種で、諸外国でも類い稀なことと存じております。」とのことです。
 航空機の事故は、航空界会社の整備陣と運航者の努力で防げる部分があるということを、全日空はフレンドシップの運航で実証されたのだと思います。
 私自身の経験から、航空会社の整備陣・運航者のご努力で、航空機の事故が少なくなることを心から希望致します。

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私の戦後70年 航空機の事故について ②

2015年8月1日土曜日 | ラベル: |

 1985年(昭和60年)8月12日(月)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落しました。乗客・乗員520名が死亡、奇跡的な生存者(負傷者)は4名でした。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2015年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多です。今年の8月12日で事故後満30年になります。

 私は当時住友銀行の研修所長兼東京研修所長として、東京・大阪間を往復していました。銀行は航空会社の大株主で、株主優待券を使うと運賃が安くなります。出張旅費節約のため本部職員はなるべく飛行機を利用することになっていましたので、羽田空港・伊丹空港間を毎週往復していました。前回書きましたように私は乗り物が大好きでしたから、毎週の飛行機での往復は全く苦にならず、むしろ楽しんでいました。
 例えば伊丹空港(大阪国際空港)は滑走路が1本なので、大体滑走路のどのあたりに着陸するかが分かります。乗った飛行機によっては、いつもより手前に着陸する、いつもより先の方に着陸する、滑らかに着地する、ドスンと着地するなど色々です。一度着地寸前に急上昇しました。「滑走路前方に飛行機がまだいましたので」とアナウンスされましたが、新聞記事にもなりませんでした。
 私は、1985年8月12日の午後6時羽田発日本航空123便に搭乗する予定でした。その日は、午後6時からは銀座にある会社の会議室で京都大学法学部同窓会の幹事会がありました。私は東西往復の生活でなかなか出席出来ず、その日の会合も欠席の「はがき」を出していました。ところが前の週の8月8日(木)の午後、ふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思いました。大阪から東京の幹事会社に電話をしました。社長の秘書の方が「眞崎さん、時にはご出席になって下さい。」とあまり熱心に言われるので予定を変更し、翌13日の朝の便に変えました。
 12日午後9時過ぎに帰宅したところ、家内が「日本航空の飛行機が行方不明になっているので、搭乗していたのではないかと大阪の人事部から照会がありました。」と言います。早速大坂に電話をして「乗っていませんでした。」「良かったですネ。」ということになりました。テレビを見ますと乗客名簿が流れていて「ああ、ここに名前が出ていたかも知れなかったのだ。」と思いました。
 翌朝、まだ機体が確認されていない午前7時羽田発の日航機に乗りました。機内には新聞がありません。乗客が「新聞は。」と聞くと、乗務員は「今日は積んでおりません。」と答えました。1面に大きく書かれている「日航機行方不明」という新聞は一切ありませんでした。また、朝になっても全国どこの空港にも不時着していないのですから、絶望的な状況であるにも拘わらず「現在弊社の飛行機が行方不明になっておりまして、大変ご心配をおかけしております。」とのアナウンスもありませんでした。墜落が確認されていないから、何も言わない触れないということに当時の日本航空の企業体質が良く表れていると思います。
 住友銀行の関係者では、OBの子会社の役員、現役の調査部長のお二人が遭難されました。他人ごとではないので、私はお二人のご葬儀に行きました。調査部長の幼いお子様を見て涙が出ました。
 ご遺族に代わってお二人のご遺体の確認にあたられた銀行の部長のお話をお聞きしました。お一方は歯型で、お一方は胸のポケットにあった資料で確認出来たとのことでした。会社の力を借りられず、ご自分たちで遺体の確認をしなければならならなかったご遺族の辛さ、悲惨さは胸を打ちます。遺体安置所の藤岡市内の学校の体育館には死臭が充満し、部長はご帰宅後衣類は焼却したが、髪の毛の死臭がなかなか取れなかったと仰っていました。

 7月25日(金)午後7時30分から、NHKの特報首都圏「問い続けた30年 日航機事故の遺児たち」を見ました。
 機長の娘さんは、事故直後から「人殺しの娘」と罵られる日々を過ごし、加害者側として生きることを強いられたましたが、最後まで力を尽くした機長の父親に誇りを持って生きて来られ、亡き父親の思いを受け継いで、現在は日本航空の客室乗務員となり、飛行機の安全を守っておられるそうです。

 大阪商船三井船舶神戸支店長の河口博次さん(52)の遺体の上着の胸ポケットに
入っていた手帳に7ページにわたって書かれていた遺書も映し出されました。

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「マリコ 津慶 知代子どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい
 パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない
今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは最后とは
何か機内で 爆発したような形で煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ  ママこんな事になるとは残念だ さようなら
子供達の事をよろしくたのむ 今六時半だ
飛行機はまわりながら急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している」

○2010/8/10 11:41 日本経済新聞 電子版 『父の「遺言」胸に25年 日航機墜落直前「幸せだった」』 より
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 私の誕生日は8月11日です。事故日は満52歳1日、河口さんと同じ歳です。もし私が搭乗していた場合、こんな立派な遺書が書けたとは到底思えません。戦中派の方から、この遺書が鉛筆で書かれていることについて、「それは軍人の嗜みなのです。」と教えられました。戦時中ですから、万年筆の時代です。インクは血でにじんでしまうので、「遺書は鉛筆で書くものだ。」ということでした。河口博次さんはご立派です。今この文章を書きながらも涙が止まりません。
住友銀行のお得意先ハウス食品工業の浦上郁夫社長、歌手の坂本九さんもこの事故で亡くなられました。

 
事故後連日悲惨な状況が次々に報道され、誠にキザな話ですが、朝目が覚めると「生きているだけで幸せだ。」と思う毎日でした。暫く経つとまた不平・不満を覚え、事故1年目の色々な特集を観て改めてまた「生きているだけで幸せだ。」と思い直しました。30年目の8月12日に、また想いを新たにすることになります。
 「二度あることは三度ある。」と言います。「三度目の正直」とも言います。次回に書きますが、飛行機に乗りたくてたまらず、新婚旅行で初めて飛行機に乗った喜びを忘れられなかった私ですが、「三度目もまた助かるのか」、はたまた「今度こそは駄目なのか」と色々な思いがして、その後は仕事などで止むを得ない場合以外は、積極的には飛行機には乗らないようになりました。
 京都大学法学部同窓会の幹事会のメンバーからは「貴方はこの会のお蔭で助かったのだから、一生この会に奉仕しなさい。」と言われ、昨年11月にも京都の大会に出席して来ました。メンバーのお一人はわざわざお祝いの席を設けて下さいました。熱心に会への出席をすすめて下さった幹事会社の秘書の方が結婚退職された時には心ばかりのお祝いを差し上げました。ロンドン赴任に当たり、私に同窓会の幹事を引き継ぐようすすめて下さった銀行同期の友人も命の恩人の一人だと思います。
 何故、事故の前の週の8月8日(木)の午後にふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思ったのか、理由は全く見当たりません。運命ということを強く感じます。
 事故の翌年銀行を退職しました。銀行生活29年、第二の人生も今年で丁度29年です。幸いに生き永らえた第二の人生を有意義に過ごさなければ神様に申し訳ないと思います。
 1985年(昭和60年)8月12日(月)に亡くなられた520名の御霊安かれと心から祈念申し上げます。

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私の戦後70年 航空機の事故について ①

2015年7月18日土曜日 | ラベル: |

 6月は郷里の長崎県諫早市で法事があり、1ヶ月休みました。掲載時期が不定期になることをお許しください。

○私の戦後70年 航空機の事故について ①
 私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。
 1952年4月9日、大阪経由福岡に向かうべく、羽田飛行場を午前7時42分に離陸した日本航空「もく星号」は伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しました。乗客・乗務員37名は全員死亡しました。当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高かったので、乗客は社会的地位の高い人が多く、漫談家の大辻司郎氏や八幡製鐵社長の三鬼隆氏などなどが犠牲となりました。戦後最初の民間航空機の事故です。私は当時京都大学に入学したばかりで、2015年5月17日(日)のブログに書きましたが、1952年5月1日の『血のメーデー』事件とともに、大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します。
 1966年 2月4日 、千歳空港を17時55分に離陸し、羽田へ向かっていた全日本空輸 60便 ボーイング 727-100が着陸直前に東京湾に墜落、札幌雪まつりの帰りの観光客で満員の乗員乗客133人全員が死亡しました。次いで、3月4日には、カナダ太平洋航空 402便ダグラス DC-8が濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗して爆発炎上、乗員乗客72人中64人が死亡しました。更にその翌日3月5日には英国海外航空 911便ボーイング 707-420が富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解して墜落し、乗員乗客124人全員が死亡しました。この年は2-3月に民間航空機の大事故が続きました。
 私は、1966年2月当時、住友銀行人形町支店に勤務していました。お得意様に今は無い大昭和製紙㈱がありました。1966年2月に私は支店長のお供で大昭和製紙㈱最新鋭の北海道・白老工場の見学に行く予定でした。「丁度札幌で雪まつりをやっています。ご覧になってお帰り下さい。」ということで楽しみにしていました。ところが「大蔵省検査」が行われることになり、白老工場見学は中止になりました。がっかりしていたら全日空機の墜落事故です。白老へ出張していたら、2月4日(金)夜の帰途、全日空機に乗っていたかも知れません。命拾いをしたのかなと当時思いました。
 1966年2-3月にかけての航空機事故については柳田邦男氏の名著「マッハの恐怖」に詳しく記述されています。ブログを書くにあたり、改めて読み直し再び感銘しました。
 


 航空工学の権威として著名な木村秀政教授を団長とする事故技術調査団の中で、山
名正夫教授は、実験の結果機体欠陥説を主張されましたが、多数決で「原因は不明」という結論になった過程には心が揺さぶられます。詳しくは同書を是非お読み下さい。
 柳田氏は「あとがき」(P.386)で、昭和7年2月27日の午後大阪から福岡へ向けて試験飛行中だった日本航空「白鳩号」墜落事件について触れておられます。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な寺田寅彦博士は、白鳩号の「事故調査委員会のメンバーでした。
 『寺田博士は、中央公論昭和10年7月号の「災難雑考」でなかで、この「白鳩号事故調査」の真髄を簡潔に記している。』と柳田氏は紹介しておられます。
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 『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに「機体の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて」「折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して」「引っかき傷の蝋型を取ったのと、それらしい相手の折片の表面にある鋲の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり」、しかも小説に出て来る探偵とちがって、「現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行った。』のである。
 その結果、誰一人目撃者のいないこの事故について、空中分解がどこからはじまってどういう順序で破壊が進んでいったのかを明らかにしたのである。そして、事故の原因は補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてあるタンパックルというネジを留める銅線の強度が弱かったために、悪気流でもまれるうちにその銅線が切れてタンパックルがはずれ、補助翼がぶらぶらになって、機体を分解させるような振動を起こしたものだということを、ついにつきとめたのだった。事故から2年を経過していた。寺田寅彦博士は論じている。
 『要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それを誰も知らずに安心していた。そういう実に大事なことがこれだけの苦心の研究の結果わかったのである。しかし飛行機を墜落させる原因になる「悪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁に新聞で報ぜられる飛行機事故の継続である。(中略)いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして、眞相を明らかにし、そして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。(中略)
 しかし、一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の眞因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が後をたたないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない』(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」より引用)
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 『典的なプロペラ時代のこの指摘が時代の流れを経て、高度なエレクトロニクス文明の時代になった今もなお、生々しい説得力を持っているということは、何を意味するのだろうか。』と柳田氏は慨嘆されています。羽田沖の全日本空輸 60便の墜落事故について、木村秀政教授を団長とする事故技術調査団が多数決で「原因は不明」という結論にされたことに対する柳田氏の思いが良く見て取れます。

 私は2011年9月1日(木曜日)のブログ「推理小説とリスクマネジメント」で
 「私は推理小説を読むのが大好きです。一回だけ行ったロンドンで、1995年(平成7年)11月1日(水)早朝、宿泊先のモントカームホテルから、シャーロックホームズが住んでいた(ことになっている)「Baker Street 221b」へジョギングし、プレートを見て感激して帰って来ました。」
 「色々な手掛かり・情報を基に名探偵が真相を暴き出すについては、論理力に加え、構成力・イマジネーションが不可欠です。リスクマネジメントで将来のリスクを見極めるについても同様の能力が必要だと私は思います。(中略)名探偵、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行には、何れも共通の能力 =論理力、構成力・イマジネーション= が必要だと私は思います。しかもそれは、持って生まれた天性とその後の訓練とが両々相俟つて始めて可能になる能力だと私は思います。」
と書きました。 
 寺田寅彦博士が『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに』と書いておられることは、将に「我が意を得たり」です。
 航空機事故の調査においても、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行においても、「緻密な徹底的な調査を行って、事態の眞相を明らかにし、解決策・対策を樹立する。」という共通の道筋があることを改めて確認出来た思いがします。

 次回は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)に向かった日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した事故に際し、私は、その便に乗る予定でしたが、前の週の木曜日8月8日にふと予定を変更し、命拾いをしたことについて書きます。


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私の戦後70年

2015年5月17日日曜日 | ラベル: |

 ブログのアップをして下さっている方が、海外出張をされたため今回のアップが遅くなりました。

 4月12日(日)のブログに、〇城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」を書きました。
 住友銀行の旧同僚の方から、自分は『大分県の臼杵のご出身』ではなく、津久見で育ち臼杵に通学(中津留大尉も同様)したので、『津久見・臼杵出身』、お父様は『津久見の特定郵便局長』だと訂正の申し出がありました。謹んで訂正致します。申し訳ありませんでした。
 『また遺児の中津留鈴子さんにも、ブログを手紙で知らせます。喜ばれると思います。』とのことでした。
今回も戦中・戦後のことを書きます。

○私の戦後70年

 私は昭和8年8月11日生まれです。天皇陛下は昭和8年12月23日のお生まれですから、私は陛下より4ヶ月早く生まれています。
 米・英などとの戦争が始まった昭和16年12月8日、私は朝鮮(現韓国)の京城(現ソウル)の南大門国民学校(現小学校)の2年生でした。「米英両国と戦争状態に入れり。」というラジオのニュースを聞いた時は、子供心にも大変なことになったと思いました。
 昭和17年11月に父が退官しましたので、九州へ帰り、佐賀市に住むことになりました。佐賀市は郊外の一部が焼夷弾で焼失した他は大きな戦災を受けず、比較的穏やかな戦時中でした。しかし、福岡市の空襲の際は脊振山の向うの空、大牟田市が空襲を受けた際は、南の有明海の向うの空が真っ赤になりました。
 軍(大本営)の発表では、常に勝っている筈なのに、戦線が段々後退して本土に近づいて来るのは何故だろうと不思議に思っていましたが、前にも書きましたようにそんなことを言うと「非国民」と言われるので口には出せませんでした。
 昭和20年8月15日は国民学校(現小学校)の6年生、学校は夏休みで家にいました。晴れた暑い日でした。ラジオから聞こえる天皇陛下のお声は良く聞き取れませんでしたが、戦争が終わったということは判りました。その晩から、空襲に備えて窓を塞いでいた黒い布を取り去り、明るい電燈の下で暮らせることになったことが、大変印象に残っています。
 戦後の食糧不足、アメリカ軍の支配、社会体制の激変などに関しては田舎なので、比較的穏やかな毎日を過ごしました。
 1952年(昭和27年)4月京都大学に入学しました。入学直後の5月1日、皇居前広場で学生たちと警官が衝突,『血のメーデー』事件が発生しました。当時の京都大学は全学連の中核的存在でした。翌1953年(昭和28年)11月11日には、京都大学の学生のデモ隊と警察官が鴨川にかかっている荒神橋でもみ合い、学生15名が浅瀬に落下、うち7名が頭蓋骨折を含む重軽傷を負うという「荒神橋事件」が発生、「川端警察署に抗議に行こう。」とか、全学スト決行など、田舎育ちのノンポリ(英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。)の私は右往左往するばかりでした。佐賀へ帰省すると京都大学に行った学生は赤くなっているから(共産党の思想に染まっているの意)付き合わないようにとのお触れが回っていました。
先祖のお墓のある諫早市の郊外の当時の国鉄長崎線の線路のそばを歩いていたら、「何をしている。」と警察官に職務質問されました。大学生が破壊活動を企んでいるのかと疑われた訳です。寄留先の地主の伯父の名前を言って無事放免されました。
 就職試験では、「内灘事件(1952年アメリカ軍の砲弾の試射場が必要となり石川県内灘砂丘に決定された。これに対する反対闘争)をどう思いますか」と質問されました。
 住友銀行に入行して大阪の支店に配属され、3年後の1960年(昭和35年)5月東京勤務になりました。赴任直後の6月11日に東京大学の学生樺美智子さんが、デモが衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡されました。渋谷の近くの南平台の岸総理大臣の自宅のあたりは「岸を倒せ」のデモ隊で埋まり、東京は政治の中心だと痛感しました。
 1969年4月28日の「沖縄デー」では松屋デパートの前の銀座支店にいました。その夜銀座4丁目の交番は焼き打ちされました。男子職員は店を守れと残っていました。支店の前では警官隊とデモ隊が対峙し、あわや市街戦となる寸前にデモ隊が逃げてしまって、支店は無事でした。
 1984年(昭和39年)8月30日のお昼、当時亀戸支店長だった私は、お得意様の宮地鉄工所の副社長と、皇居前のパレスホテルの最上階のレストランで食事をしていました。丸の内方面のビルに真っ白な煙が立ち昇り、すぐに地上を多数の消防車や救急車が走り始めました。そこへ「社長が三菱重工業前で重傷を負い、日比谷病院へ運ばれました。」との連絡がありました。副社長に支店長車をお貸しして、日比谷病院に急行して頂き、重傷の社長をかかりつけの関東逓信病院に移し、一命を取り止めることが出来ました。
 学生時代、銀行勤務時代共に、政治闘争は身近で、その時々自分は如何に身を処すべきか考えさせられました。
 話は変わりますが、1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎氏の長女・美智子様を皇太子妃に迎えることを可決したと発表しました。1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業されていた美智子様は、その年の夏、皇太子様と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子様は美智子様のお人柄に惹かれて自らお妃候補にと言及されたと報道されました。銀行入行2年目、同年代の者としては、時代の変化について強く感ずるものがありました。
 私事で恐縮ですが、私の銀行時代の上司の奥様が美智子様の聖心女子大学時代のクラスご担当であった英国児童文学ご専門の猪熊葉子教授、私の家内の従姉妹が美智子様と同クラスだったので、美智子様のことをお聞きする機会が色々ありましたが、誠に良くお出来になったお嬢様だったとの感を強くしています。また美智子様ご成婚後の皇室に対する態度などを拝するにつけ、ご実家の正田家も大変立派なお家だとつくづく思います。
 最近、戦後70年に当たり,戦争によって亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,また我が国とパラオ国との友好親善関係に鑑み,天皇皇后両陛下がパラオ同国を御訪問になりました。4月8日はコロール島 、ここは第一次世界大戦後南洋諸島が日本への委任統治領になった時期南洋庁が置かれていました。4月9日は ペリリュー島、ここでも第二次世界大戦で日本軍は玉砕しています。熱帯の地をご高齢の両陛下がわざわざご訪問になるについて、そのお気持ちが強く私の感動を誘います。東日本大震災の被災地ご訪問といい、比較しては不敬にあたるとは重々思いますが、わが身に比べ何とご立派なことかと思います。
 前回も書きましたが戦後70年、何が問題だったのか、今後如何にあるべきか。自分の人生も含めて改めて回顧・反省すべきだと痛感しています。

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城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」

2015年4月12日日曜日 | ラベル: |

 3月15日(日)のブログに、『住友銀行の旧同僚の方から「南国忌」に誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。』と書きました。今日はその後日談です
 彼と「一度お昼ご飯でもご一緒しましょう。」ということになり、3月30日(月)お茶の水の行きつけのフレンチでお昼を食べ、お花見に行って来ました。
 先ず、靖国神社に行って、靖国神社境内にある、気象庁が東京の桜の開花宣言をする際の基準木を見た後、「遊就館」へ行きました。
 彼は大分県の臼杵のご出身なので、「遊就館」に展示されている臼杵出身の彫刻家日名子実三さんの兵士像、大友宗麟の臼杵城の青銅砲を見て感激している内に、1945年(昭和20年)8月15日午後5時過ぎ(戦争終結の玉音放送の後)沖縄へ特攻出撃された宇佐の第五航空艦隊長官宇垣纏中将の搭乗機を操縦して亡くなった中津留達雄大尉の機上写真が展示されているところで、大きな感動を受けられたご様子でした。「どうしたのですか。」とお聞きしますと、「臼杵で特定郵便局長をしていた、私の父は中津留達雄大尉ご遺族の相談相手だったのです。遺児の鈴子さん(後述)の結婚の際、父は頼まれ仲人をしました。」と申され、城山三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)を是非読んで下さいと言わましたので、早速求めて読みました。

 1944年(昭和19年)10月25日、関行男中佐(二階級特進)の率いる神風特別攻撃隊・敷島隊がフィリピンのレイテ島沖で体当たりの攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈しました。神風特別攻撃隊の第一陣です。私は当時国民学校(現在の小学校)5年生でした。敷島隊のことが大々的に報道された時、子供心にも「何というむごいことだ。」と思いました。その後特別攻撃隊出撃のニュース映画を学校から見にいった時、出撃前に挙手の敬礼をされている特別攻撃隊の方々のお顔を見るのが辛かったことを今も鮮明に覚えています。しかし、当時そういった感想を述べると「非国民」と言われましたので心の中にしまい込んでいました。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」によれば、関行男中佐と中津留達雄大尉は昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した同期生(第70期)です。
 関中佐は特別攻隊第1号で、中津留大尉は最後の特攻を企図した第五航空艦隊長官宇垣纏中将が搭乗した「彗星」を操縦された訳です。最初の特攻隊長・関行男大尉(当時)に対して、中津留大尉は最後の特攻隊長と言われています。
 「指揮官たちの特攻」にはお二人の比較が書かれていて大変興味深いのですが割愛します。
 中津留大尉は大正11年1月大分県の津久見町で生まれ、臼杵中学から海軍兵学校に入学されました。昭和19年1月宇佐航空隊付教官になり、3ヶ月後結婚されています。その後美保基地を経て、当時の最新鋭機「彗星」1個中隊を率いて大分基地へ行かれました。その際上司の計らいで、お七夜に津久見で初めて娘の鈴子さんに1回限りの父子対面、その3週間後に死亡(戦後死)されています。享年23歳でした。
 
 1945年(昭和20年)8月15日第五航空艦隊長官宇垣纏中将は中津留大尉を呼び、戦争終結を告げず特攻出撃を命じました。午後5時過ぎ中津留大尉率いる彗星11機は出撃しました。指揮官機には宇垣纏中将が乗り込んでいました。宇垣纏中将は山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。その夜、中津留機他一機が沖縄・伊平屋島(いへやじま)に突入したことは確実です。8月15日の夜、米軍キャンプでは明々と電灯をつけ勝利を祝うビア・パーテイ中でした。

 城山三郎著「指揮官たちの特攻」では中津留大尉の最後の状況を以下のように推測しています。
 「敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中津留は疑問を感じ、その結果戦争が終わったことを知る。(中略)そのとき、天地の暗闇の中でただ1ヶ所,煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命じる。
 もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前左へ旋回する。突入を知らせる長音符が普通より長かったという司令部通信室の証言がそれを裏付ける。
 編隊での高等飛行で中津留に鍛えあげられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間的に読みとり、もはや方向を変える余裕もないまま、機を引き起こしキャンプの先へ ╍╍ というのが。現地に立っての私の推理である。
 (中略)
 断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。
 騙し打ちにはじまり、騙し打ちに終わる日本は世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。
 中津留大尉は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突し、続く部下機は基地を越えて水田に自爆したと見られています。

 住友銀行の旧同僚の方からは、彼の旧住友銀行のOB会会誌への寄稿『中津留大尉の遺徳を偲ぶ ー 日本の名誉を守った救国の青年将校』、雑誌に掲載された遺児中津留鈴子さんの手記『「指揮官たちの特攻」で父に会えた。』、城山三郎氏の対談『中津留大尉の決断』なども送って頂き、全部を読み終わって、改めて深く々々感動しました。
 私は幼い日、神風特別攻撃隊の報道について子供心に感じたことを改めて思い浮かべました。戦争は非人間的だと言われます。然し、第二次世界大戦の末期の特別攻撃隊、或いは人間爆弾「桜花」人間魚雷「回天」などの特攻兵器で、有為の若人達を死地に追いやった当時の軍の上層部の考えは、生還の望みの全くない攻撃を部下に命令したもので、個人の人格を全く無視したものであり、戦争の非人間性とは異なったむごいことです。それで、軍国少年だった幼い私は違和感を感じたのだろうと思います。

 宇垣纏中将は、敗戦時の8月15日に自決された阿南惟幾陸軍大臣のように一人で自決されるべきだったと私は思います。有為な若者を道連れにするべきではなかったと私は確信します。ただ、その結果中津留大尉は日本の名誉を守った救国の青年将校となられた訳です。
 2013年10月1日のブログに書きました「無言館」の戦没画学生の絵画のこと、2013年10月10日のブログに書きました窪島誠一郎様のご著書「夜の歌」の作曲家尾崎宗吉氏の物語、何れも第二次世界大戦が奪った若き才能の物語です。
 戦後70年、第二次世界大戦の記憶は薄れる一方です。何が問題だったのか、私たちは改めて回顧すべきだと痛感します。


○千鳥ヶ淵の桜
 遊就館見学の後、千鳥ヶ淵の満開の桜を見て帰りました。今回のお花見は嘗て無い強いインパクトを受けたお花見になりました。

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九段三丁目町会の防災訓練

2015年3月29日日曜日 | ラベル: |

 私が主宰する日本ナレッジマネジメント学会の第93回リスクマネジメント研究部会を3月25日に開催しました。講師は九段三丁目町会会長の細内進様です。
 『1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内の各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。(中略)翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ、今日も行われている。』と靖国神社百年史に記述されているというお話から始まりました。靖国神社も九段三丁目町会の町会員です。細内様は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時は小学校の低学年だっため、集団疎開に行かず九段に住んでいたため、靖国神社の塀のところから自宅が焼け落ちるのを見ておられたそうです。東京大空襲のご記憶のある数少ない方です。
  2014年5月1日のブログに書きました東京都の「地域危険度一覧表」を見ますと千代田区九段南は、建物倒壊危険度・火災危険度・総合危険度いずれも最も安全な(1)ランクの地区です。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/1chiyoda.htm
 2011年( 平成23年)3月11日東日本大震災当日、靖国神社の前の靖国通りは、
徒歩で帰宅する人で溢れました。この日も社地は一休みする人たちで一杯になりました。靖国神社は対応に苦慮されましたが、幸い人々はまた歩き出したので事なきを得た由です。
 細内様は昭和8年創業の老舗の洋菓子屋「ゴンドラ」の2代目です。デパート等には
出店せず、ご自分のお店だけで美味しいお菓子を作っておられます。1961年(昭和36年)スイス国立リッチモンド製菓学校をアジア人として初めて卒業、国際菓子コンクールの審査員もなさっています。岸朝子さんがご本で激賞しておれます。

 阪神淡路大震災の折、近所付き合いの良かった地区では、地震直後「誰々さんの姿が見えない。」ということで,近隣の方々が倒壊家屋に閉じ込められた方々を救出して、怪我の手当てをしたり、その後の火災による焼死を防止したというのは有名な話です。
東京大学の故廣井治脩先生が中心になって纏められた「1995年阪神・淡路大震災調査報告」35ページに廣井先生は「阪神・淡路大震災と住民の行動」という論文を寄せておられます。
 『今回の地震で痛感したのは、震度7の激震に遭遇すれば、警察や消防などの防災機関がどんなに努力しても限界があり、住民の一人一人が自分で自分の身を守らざるを得ない、ということであった。震災の被災地において、周囲の倒壊家屋の下から聞こえてくる「助けてくれー」という声に多くの人が必死になって瓦礫をを取り除いたとしばしば聞いた。また、一般家庭から出た火災を地域の人が必死に消火したと聞いている。(中略)地域住民の献身的な活動がなければ、人的被害はもっと大きくなっただろうし、火災の延焼ももっと拡大していたであろう。』と書いておられます。

 九段三丁目地区も従来からの住民は近隣の付き合いが濃密なのですが、相続税対策などでお屋敷が売られ、高層マンションになるとそこの住民はあまり近所付き合いをされないというのが町会長さんの悩みの種です。折角の災害対策の備蓄品や、特に九段地区は上水道の地下備蓄タンクまであるのですが、それが利用出来ない訳です。「町会の行事にお誘いして、なるべく付き合いをして頂くようにしてはいるのですが。」ということでした。
 細内様が苦労しておられる。町内会の防災活動は、来るべき首都直下地震に対応する極めて大事な活動だと痛感します。
 地震発生時の避難所は原則公立の学校です。2011年(平成23年)3月11日14時46分東日本大震災発生時、避難所の九段小学校はまだ授業中で校門は閉まったままでした。また九段小学校は九段の高台から坂を下ったところにあり、通常は高いところにに避難するものなので、町会長としては如何なものかと思っていたところ、靖国神社に隣接した高台にある、三輪田学園から百年記念館の2F・3Fを避難所に提供します。」という申し出がありました。区は私立学校だからと言って首を縦に振りません。永年の折衝のあげく、一時避難所として認めて貰うことになりました。九段三丁目町会と三輪田学園との「災害時における一時避難所に関する協定書」で「協力期間は原則3日間(これが行政の建前です)以内とする。ただし協議の上延長することが出来る。」ということで解決したという苦心談をお聞きしました。
 私事で恐縮ですが三輪田学園(旧三輪田高等女学校)は私の母の母校です。過日大正10年3月卒業の母の日本画の宿題の何枚かを捨てるに忍びず「差し上げたい。」と三輪田学園に申し出たところ,三輪田理事長様が受け取って下さいました。その際母の卒業アルバムのコピーを頂きました。平岡家に嫁がれた三島由紀夫様のご母堂、橋倭文重様や「坂の上の雲」の秋山真之のお兄様で我が国の騎兵隊の創設者である秋山好古将軍のお嬢様などが母のクラスで並んで写っていて、子供としては感動しました。
 その際、三輪田理事長から「プールの水を利用して下水のマンホールの上に簡易トイレを設置する予定です。また地震発生時には、京浜地区の最寄りの私立学校同志で学生の避難を受け入れる協定をしています。」等のお話をお聞きし、先の九段三丁目町会との「一時避難所に関する協定書」の件といい、防災に大変理解のある学校だと思いました。
 千代田区のホームページに「成26年3月10日(月曜日)に九段三丁目町会の防災訓練が行われました」という記事が掲載されています。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/fujimi/shinchaku/h260310.html
 「これは災害時の一時避難場所として、三輪田学園が百年記念館小講堂を開放していただけることになったことを踏まえて、行われた訓練です。会場の内外で、応急時の三角巾の使用訓練、スタンドパイプ取扱訓練、初期消火訓練などに、80名の参加者が熱心に取り組みました。(以下略)」
 草の根の防災対策熱心に取り組んでおられる細内様のご努力に深く敬意を表したいと思います

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「阪神淡路大震災の回顧」(5) 「阪神大震災その時企業は」

2015年3月15日日曜日 | ラベル: |

 旧住友銀行の同僚の方から「私がボランティアで手伝っている<南国忌>にいらっしゃいませんか」と誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。
 <南国忌>は直木賞に名を残す作家直木三十五の命日である2月24日前後の休日に、直木三十五を偲んで彼のお墓のある長昌寺で行われる会合です。私は直木三十五の代表作で、<南国忌>の名前の謂れである「南国太平記」は父の書架にあったものを高校時代に読みました。当日は法要と募参の後、元文藝春秋常務取締役の竹内修司様から、直木賞を受賞した井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」誕生の秘話を含む「実録・ジョン万次郎漂流記」という講演をお聞きしました。竹内様のお話によると、
 ジョン万次郎は土佐国中濱村の漁師の子で、貧乏で読み書きも殆ど出来なかった人物です。1841年(天保12年)出漁中に嵐にあって伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、143日後奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は頭の良さを船長に気に入られ、船長と一緒に暮らし、アメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は捕鯨船の副船長にまでなりました。1850年(嘉永3年)に帰国を決意し、ハワイにいた嘗ての漁師仲間と共に1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸します。その後の詳しいいきさつは省略しますが、1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎を幕府に召聘し、直参の旗本の身分を与えました。土佐の貧しい漁師の子のアメリカから得て来た知識が、開国という大変な時期に幕府ひいては日本の国に大いに貢献したという大変刺激的なお話でした。色々な会合には出てみるものだと思いました。
 お隣に座っていた方から送って頂いた<南国忌>の写真を許可を得て掲載致します。

〇直木三十五の墓所の掲示

〇墓参

〇元文藝春秋常務取締役の竹内修司様の講演

 その方は天文学に詳しく、英文学者で戦前・戦後に天文学の普及・啓蒙に努められた野尻抱影氏の話題になりました。「今日竹内様が井伏氏の直木賞受賞選考の経緯でお話された作家の大佛次郎氏の本名は野尻清彦で、野尻抱影氏の弟さんです。」と申し上げました。「野尻清彦さんは私の父の旧制第一高等学校のクラスメイトなので、そのことを父から聞いていました。」などとその方と話が弾み、楽しい午後になりました。
 閑話休題、本来のテーマに戻ります。

「阪神淡路大震災の回顧」(5) 
「阪神大震災その時企業は」

 1995年(平成7年)4月阪神淡路大震災の直後に出版された、日本経済新聞社の『阪神大震災 その時企業は 徹底検証 危機管理』と言う本があります。

1.流通大手の決断
 この本の12ページ以下は当時のダイエー中内功会長兼社長の話です。
 東京・田園調布にあった中内社長の自宅に阪神淡路大震災による店舗の被害状況の第一報が入ったのは、地震発生後35分後の6時20分でした。午前8時、中内社長は東京・芝のダイエー本社で地震対策本部会議を開催、被災地の店舗の営業再開を指示、関連会社の「ローソン」にもその方針が伝えられました。1月17日(火)はダイエーの多くの店舗は定休日でしたが、兵庫県内47店舗中25店が地震当日営業しました。ローソンは18日時点で273店舗中194店が営業にこぎつけました。
 「ダイエーはなぜこれだけ素早く動けたのか ―― 中内氏が創業者の実力社長であり、様々な決断を合議ではなく一人で次々に下していけたことがその背景にある。」と同書は記述しています。地震当日中内氏は地震対策本部には会議の冒頭に顔を出しただけで、自室にこもり、対策本部からの被害状況の報告に対してトップダウンで自らの決断を下しました。
 昨年12月9日(火)のブログの記事「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で、『ISO22301の「5.1 リーダーシップ及びコミットメント」では、先ず「トップマネジメントにある者は,BCMS に関してリーダーシップを実証しなければならない。」とされています。このISO22301で想定しているマネジメントスタイルは、欧米、特に米英豪型のものであり、その観点からは当然の内容ですが、わが国の企業に持ち込む場合、これを実行することは容易なことでは無いと思われます。』(中略)『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し、欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ここで要求されていることは実行出来ないと思われます。』と書きました。阪神淡路大震災の時の中内社長はまさにISO2230が要求している通りのことを実行された訳で高く評価されるべきだと私は思います。
 

4.生産ライン確保に走るメーカー
 この本の25ページ以下はトヨタの話です。『阪神淡路大震災発生当日、トヨタの豊田達郎社長と5人の副社長は東京にいました。首脳陣は「対策本部」の設置を決める一方、生産担当である大西服副社長は豊田本社へトンボ帰りをする。この時点で工場稼働を含め、生産に関することは大西副社長に決定権が委ねられた。17日正午から午後2時までの間に生産部門からの応援部隊の第一陣が現地へ向けて出発、』と記述されています。
 トヨタも「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で要求されていることを実行しています。
 私は、平成17年6月から中小企業庁「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議メンバーになりました。作業の一環として、その年の8月に受託の三菱総合研究所の方々とご一緒に神戸に行き、阪神淡路大震災の時の中小企業の状況のヒャリングを行いました。
 何社かお伺いした中に、トヨタの孫請けの精密プレス加工の会社がありました。その企業の精密プレス加工は、トヨタにおける自動車生産の継続について必要不可欠の部分であるとトヨタは判断していたと思われます。阪神淡路大震災発生後、トヨタはその会社に応援要員をヘリコプターで送り込んで、精密プレス機械の調整・稼働の支援を行いました。プレス加工はガスが通じていなくても稼働出来ますが、電気と水は不可欠です。工場の高いところにあるタンクに水を補給するため、トヨタはポンプ付の給水車を回して来ました。何日か経つと、お弁当の中身に飽きたでしょうと、お昼のお弁当も豊田市から空輸されました。トヨタからの派遣要員は、その会社の方々が食事を済ませた後にお弁当を食べていたそうです。
 「こちらから応援を頼んだわけではなかったのです。トヨタの仕事をしていて、本当に良かったと思います。」とその会社の会長さんがしみじみと仰っていました。
 事業継続計画は2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、非常時の際の準備が整っていた金融機関などが事件後速やかに事業を再開・継続したことから、喧しく叫ばれ始めたことです。1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時は災害復旧計画の時代でした。その時代にトヨタが生産工程に不可欠な部品の精密プレス加工の孫請けの会社を支援したというのは、驚くべきことだと私は思います。
 2007年(平成19年)7月16日 - リケンの柏崎工場が新潟県中越沖地震で被災し、その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止した際、トヨタの技術者が真っ先に支援のために駆けつけ、国内乗用車メーカー各社が追随しました。私は流石トヨタだと再度感銘しました。経営者のリーダーシップ、及びきめ細かな事業継続計画の好事例が1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時に既にありました。
 重ねて書きますが、今東北大震災の回顧が盛んです。それも重要なことですが、首都直下地震対策のためには、阪神淡路大震災の記録をもっともっと活用すべきだと私は思います。
 

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「阪神淡路大震災の回顧」(4) 

2015年3月1日日曜日 | ラベル: |

 2月13日から3日間、飛騨古川と高山へ行ってきました。親しい東京二期会の歌手大澤一彰さんが創作オペラ「天生(AMOU)」の主役をされるので、仲良しのご夫婦と2夫婦4人で飛騨へ行きました。飛騨古川は高山から3駅先です。泊まったのは大竹しのぶ主演の「ああ野麦峠」の舞台となった明治時代から続く「八ッ三館」という料亭旅館です。平成16年国登録有形文化財に指定されています。
http://www.823kan.com/
 飛騨古川では、一晩中雪が降り続きました。宿の窓からの景色です。
 

  八ッ三館の窓からの雪景色

 翌日、高山と夜はライトアップの白川郷へ行きました。飛騨には寒い時に行くべきですと、昔勤務した岐阜で言われましたが、その通りだと思いました。

雪の飛騨川です。

「困り果てたのはトイレだった」
 1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の後に出版された、時事通信社の『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』と言う本があります。阪神淡路大震災に遭遇した時事通信社の現地の方々の経験談です。今首都直下地震に備えて、色々なことが言われています。『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』の内容は今言われていることと大差はありありませんが、実体験に基づく記述ですので迫力があります。
 この本の46ページはトイレの話です。「困り果てたのはトイレだった」と言うのが標題です。「トイレ事情も悲惨だった。本山第二小では校庭の隅に穴を掘り、シートで覆ったサッカーゴールを置いて、応急のトイレを作った。穴が1杯になるたびに場所を変えるため、周囲には悪臭が漂う。清掃は全く出来ず衛生状態は最悪だった。(中略)神戸市は地震の2日後からトイレの設置を始めた。しかし、十分に数が確保出来ず、全避難所に設置するには、約2週間かかった。」と記述されています。
 私は、ご縁がりありまして2005年(平成17年)中小企業庁の「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議委員になり、その作業の一環として神戸市に阪神淡路大震災当時の状況のヒャリングに行きました。神戸市内の避難所になった小学校の近くの建設業者は「毎朝事務所の前が大小便だらけになり、洗い流すのが日課でした。」と言われました。避難所の小学校で大小便が出来ない避難者は、夜間に近くの路上で大小便をしていた訳です。阪神淡路大震災当時こういったトイレの状況、仮設トイレの問題は全く報道されませんでした。
 2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする「中越地震」、2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする「新潟県中越沖地震」においては、仮設トイレの供給が遅れたことが問題になりましたが、公の場で議論されたということは進歩だと思います。更に仮設トイレは洋式が少ないので、高齢者には辛いということも報道されました。
 神戸市の「阪神淡路大震災―神戸市の記録 1985年―」には、「避難所580ヶ所に避難民20万人を数え、仮設トイレは2100基~2200基あ必要と考えられた。」と記述されています。

 下表は同書による仮設トイレの設置状況です
  設置箇所数  設置台数 直営外収集台数✫
 1月  18日     7    79      ―
     20日   155   280     25
     21日   216   524     25
     31日   462  2,381     25
 2月  16日   546 *3,012     11
     28日   546  2,938     16
 3月  31日   451  2,214     13
 4月  30日   304  1,216      6
 5月  31日   237
750
     4
 6月  30日   186   491      3
 7月  31日   143
 392
     2
 8月  31日    97   220      2
*設置台数最大  ✫直近1週間の1日あたり平均台数

 神戸市の避難者は約20万人でした。『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』によれば、首都直下地震においては、避難者は最大720万人と言われています。36倍です。首都直下地震発生時に10万台以上の仮設トイレがすぐ集まるでしょうか。各人は自分でトイレ対策を樹てなければなりません。
 東日本大震災における避難所の最大の問題はトイレの問題だったという調査結果があります。「困り果てたのはトイレだった」は今も生きていると考えます。
 丁度この原稿を書いている時「日本トイレ研究所」から3月18日(水)に「災害用トイレ研究フォーラム」を開催するとのメールが来ました。参加しようと思います。

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「阪神淡路大震災の回顧」(3)

2015年2月15日日曜日 | ラベル: |

 昨年7月20日のブログ「江戸城の天守閣を再建する」でご紹介した九段南のお菓子屋さん「ゴンドラ」のご主人細内進さんは、千代田区の九段三丁目町会の町会長さんでもあります。
 昨年年3月10日(月曜日)に、災害時の防災訓練が九段三丁目町会主催で行われました。千代田区のHPには「これは災害時の一時避難場所として、三輪田学園が百年記念館小講堂を開放していただけることになったことを踏まえて、行われた訓練です。会場の内外で、応急時の三角巾の使用訓練、スタンドパイプ取扱訓練、初期消火訓練などに、80名の参加者が熱心に取り組みました。」と記載されています。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/fujimi/shinchaku/h260310.html
 3月25日に、私の所属する学会の研究会に細内さんをお招きして、九段三丁目町会の 防災訓練についてお話をお聞きすることになりました。市民レベルの防災知識の向上・地震対策は大変重要なことだと思いますが、まだまだ不十分だと私は思います。
 1月18日のブログ「阪神淡路大震災の回顧」(1)の②被災者の死因の項で、「遺体を検案した監察医のまとめによりますと、阪神淡路大震災の死者6,434名の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとされています。検視の際気管にススが入っていなければ,死後に火災に遭ったことになるということです。」と書きました。
 首都圏直下地震に備えて、圧死するリスクを避けなければなりません。

〇東京大学社会情報研究所の「1995年阪神淡路大震災調査報告」
 阪神淡路大震災に関する文獻の一つに、東京大学社会情報研究所の広井脩教授(災害 社会学)が中心になって纏められた「1995年阪神淡路大震災調査報告」という論文集(237ページ)があります。故広井脩先生は一貫して 災害に関する研究に携わり、我が国における災害情報研究の第一人者として活躍された方です。 2006年〈平成18年〉4月15日ご逝去の際に、当時ご一緒に「中小企業BCP普及事業」に従事していた三菱総合研究所の災害関係の研究員の方々が挙ってお弔いに行かれたことを思い出します。
 その報告の中に、故広井脩先生が自ら執筆された「阪神淡路大震災と住民の行動」という論文があります。
 その中で、広井先生は、阪神淡路大震災を象徴する被害は「10万棟に達した家屋の倒壊である。」と仰っています。指摘されている問題点は下記です。
①一般家庭における家屋の耐震診断と補強対策の推進が重要である。
②今回は往来に人がいない時刻に地震が発生したが、ブロック塀や自動販売機等の危険
物による人的被害発生の可能性もあるので、被害防止策の充実が必要である。
➂家具の転倒と危険物の落下。
 ピアノや重いタンスは大きな人的被害を与えた。関西には大きな地震が来ないという意識のため家具類を殆ど固定していなかったことも被害を大きくした。

 95年8月中旬神戸市(700人)と西宮市(500人)のアンケート調査の結果
  神戸市(%) 西宮市(%)
自分自身けがをした   8.6   10.2
家族のなかにけがをした者がいた   9.2    7.4
家族ななかに亡くなった者がいた   1.4    0.6

 阪神淡路大震災の死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名を生じてしまいましたが、負傷者の殆どは家庭内での負傷、主因は家具の転倒でした。
 その原因は「関西地震安全神話」で、それが被害を大きくしました。

  神戸市(%) 西宮市(%)
いつかは大きな地震がくると思っていた。    4.9    5.8
小さな被害が出る地震ならくるが大きな地震はこないと思っていた   13.0   13.5   
被害が出るような地震はこないと思っていた   20.6   15.3
地震のことなど考えたことはなかった   61.2   64.7

 そして、防災対策は何もしていなかった人は神戸市で68.2%、西宮市で66.9%だったと報告されています。
 「阪神淡路大震災の前に地震学者や防災研究者の中で、関西地方は地震の安全地帯だなどと主張していた人は皆無であった。(中略)市民レベルでは関西には大地震が来ないという常識のズレが被害を拡大した一つの要因だったといえよう。」
「極言すれば大地震に対して危機意識を持っているのは東京・神奈川・静岡などごく一部の住民だけだといえよう。阪神淡路大震災以降全国各地の防災意識は急速に高まっているのは認めるが、それがどこまで続くのか保証の限りではない。(中略)住民が不断に地震意識を維持するためには果たしてどうすればいいのか。」
と結んでおられます。
【 所見 】
 広井先生の論文は21ページに及び、本稿はその一部をご紹介したに過ぎません。
 . 私も阪神淡路大震災当時勤務していた保険代理店の関西地区の被災者から、「テレビが飛んで来ました。」「本棚の下敷きになりました。」とのお話をお聞きしました。
企業のBCPや地震対策については、専門家がコンサルを行っていますが、それでも中小企業や小規模企業については行き届いていません。まして各家庭の地震対策については、冒頭にご紹介した 九段三丁目町会長の細内さんのお話をお聞きしてもまだ不十分だと思われます。
 私が住んでいる横浜市では、昨年向う3軒両隣りで「地震対策・地震発生時の共助」についての話合いが行われました。私は「簡易トイレ」など防災グッズの見本を幾つか持参しましたが初めて見たという方もありました。
 「自助・共助・公助」と言いますが、まず自分でどうするかについて、阪神淡路大震災には学ぶべき点が多々あると思います。

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「阪神淡路大震災の回顧」(2)

2015年2月1日日曜日 | ラベル: |

➂交通への影響
 平成7年(1995年)1月17日(火)に発生した阪神淡路大震災では地域の交通網にも甚大な被害が発生しました。

〇道路の状況
 兵庫県の「阪神淡路大震災の支援・復旧状況」という報告書によりますと、道路の状況は以下のようにまとめられています。
 以下、鉄道の状況、港湾の状況も同報告書の記述です。

 
区分
震災直後不通区間
復旧
阪神高速道路
(神戸線)


(湾岸線)
(北神戸線)
全線
(うち京橋~摩揶)
(うち若宮~京橋)
(うち摩揶~深江)
全線
全線
平成 8 年 9 月 30 日
平成 8 年 2 月 19 日
平成 8 年 8 月 31 日
平成 8 年 8 月 31 日
平成 7 年 9 月 1 日
平成 7 年 2 月 25 日
名神高速道路
第二神明道路
中国自動車道
西宮~府県境
伊川谷~須磨
西宮北~府県境
平成 7 年 7 月 29 日
平成 7 年 2 月 25 日
平成 7 年 7 月 21 日
国道 43 号
国道 2 号
西宮~岩屋
若宮~岩屋
平成 7 年 1 月 17 日
平成 7 年 1 月 17 日

 阪神高速道路(神戸線)の倒壊が極めて強烈な印象でした。
 高速道路の復旧は最終平成8年9月30日です。



 危うく落下を免れたバス  YAHOO「阪神淡路大震災の画像」より



 倒壊した高速道路  YAHOO「阪神淡路大震災の画像」より

阪神淡路大震災の丁度1年前、1994年1月17日午前4時30分55秒(太平洋標準時)、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス市ノースリッジ地方で発生した地震「ノースリッジ地震」または「ロサンゼルス地震」で、高速道路が崩壊しました。私は良く覚えているのですが、我が国の関係者は「我が国の高速道路が地震で倒壊することは無い。」と豪語していました。ところが1年後、阪神淡路大震災によって高速道路の倒壊は我が国でも現実のことになりました。



ノースリッジ地震で倒壊した高速道路 「ウイキペディア」より

 その後、高速道路の耐震化工事がなされていると思いますから、首都圏直下地震では大丈夫なのだろうと思います。
 道路は震災直後、随所で道路自体の破損や沿道家屋の倒壊で通行不能となった上、通行可能な道路でも、信号機の倒壊、交通規制を行う人員の不足等の悪条件の下で、様々な目的で多くの車両が走行しようとするため大変な渋滞となり緊急自動車や救援車両の通行を不能にし、人命救助の優先などについて極めて大きな問題を生じました。
 その後、事態の改善について対策が樹てられていると思いますが、震災直後は自家用車での移動は困難だと考えておくべきだと思います。

 2014年7月1日(火曜日)のブログでご紹介した、『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』の記述は下記です。
・1日約100万台が利用する首都高速道路では、市街地火災の影響による鋼桁の損傷、地盤変異による高架橋の大変形が生じた場合、首都高3号線、4号線や湾岸線等で数ヶ月に渡り通行不能となる。

〇鉄道の状況
区分
震災直後不通区間( km )
復旧
JR 新幹線
JR (東海道・山陽本線)
(福知山線)
(和田岬線)
京都~姫路 (130.7)
尼崎~西明石 (48 . 2)
塚口~広野 (37.2)
全線 (2.7)
平成 7 年 4 月 8 日
平成 7 年 4 月 1 日
平成 7 年 1 月 21 日
平成 7 年 2 月 15 日
阪神(本線)
(武庫川線)
甲子園~元町 (18.0)
全線 (1.7)
平成 7 年 6 月 26 日
平成 7 年 1 月 26 日
阪急(神戸線)
(甲陽線)
(伊丹線)
(今津線)
西宮北口~三宮 (16.7)
全線 (2.2)
全線 (3.1)
全線 (9.3)
平成 7 年 6 月 12 日
平成 7 年 3 月 1 日
平成 7 年 3 月 11 日
平成 7 年 2 月 5 日
神鉄(有馬線)
(三田線)
(粟生線)
全線 (22.5)
全線 (12.0)
全線 (29.2)
平成 7 年 6 月 22 日
平成 7 年 1 月 19 日
平成 7 年 1 月 19 日
山陽
西代~明石 (15.7)
平成 7 年 6 月 18 日
神戸高速(東西線)
(南北線)
全線 (7.2)
全線 (0.4)
平成 7 年 8 月 13 日
平成 7 年 6 月 22 日
神戸市営地下鉄
板宿~新神戸 (8.8)
平成 7 年 2 月 16 日
神戸新交通(ポートライナー)
(六甲ライナー)
全線 (6.4)
全線 (4.5)
平成 7 年 7 月 31 日
平成 7 年 8 月 23 日



JR六甲道駅 YAHOO「阪神淡路大震災の画像」より

 山陽新幹線は、8ヶ所で落橋しましたが、始発前だったので旅客への被害はありませんでした。4月8日に全線開通しました。
阪神間を結ぶ、JR(東海道、山陽本線)・阪急(神戸線)・阪神(本線)は何れも不通となり、JRは4月1日、阪急は6月12日、阪神は6月26日に開通しています。その他については前記の表をご覧下さい。 

 『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』の記述は下記です。
・被災等により1日のべ4,000万人(大阪~神戸間のJR、阪急、阪神の合計の輸送人員は 当時1 日45万人)の輸送を担う鉄道の運行停止が長期化、発災後1ヶ月経過しても約60%の復旧に止まり、被災地外からの通勤困難等により首都圏の企業活動が停滞。
・また、東海道新幹線の小田原以東、上越新幹線の熊谷以南、東北新幹線の小山以南が不通となり、広域的な移動に支障が生じる。

〇港湾の状況(平成12年4月1日現在)

公共岸壁
震災前の
全体バース数
震災直後の
着岸不能バース
着岸可能バース
着岸不能バース
減少バース
神戸港
186
186
164
*9
13
尼崎西宮芦屋港
10
10
9
*1
0
*整備中バース

 「ウイキペディア」の記述によれば、神戸港には、フェリーなどが四国・九州方面を中心に多く発着していましたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的には大阪南港などに発着地を変更して運航されました。
 その後は、陸上輸送が麻痺状態の間は、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして、機能しました。また、ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて、大阪 - 神戸間、神戸 - 西宮間など短距離の臨時航路も設けられ、代替交通機関として疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力がなされました。
 前回書きましたように、私は震災2週間後神戸へ行きましたが、帰途は神戸の波止場から平時は遊覧船のサンタマリア号にすし詰すし詰めになって大阪の天保山に帰りました。

 前記『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』の記述は下記です。・
・全国の外貨取扱貨物量の約3割を占める東京湾各港では、非耐震岸壁での陥没や沈下、
荷役機械の損傷等により、多くの埠頭で港湾機能を失う。
・東京湾内では重要港湾の923岸壁のうち250岸壁が被災し、東京湾内では石油
等が流出して船舶の入出港が困難となる。
 更に空港等について、下記のように記述されています。
・全国の国内線乗降客数の約3割を占める羽田空港では、液状化により滑走路2本が
使用できなくなり、またアクセス交通(鉄道、モノレール、道路)の停止により、
空港機能が低下。
・輸送ルートの被災等によりサプライチェーンが寸断され、企業の生産活動が低下。
その影響が長期化した場合には、生産機能の国外移転等が進み、我が国の国際競争
力が低下。

 以上交通関係について考えて来ました。首都直下地震派生の際は、阪神淡路大震災とは比較にならない大規模な災害になると思います。それでも阪神淡路大震災の状況を参考に、首都圏直下地震では如何に対処すべきか考えるべきだと思います。

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「阪神淡路大震災の回顧」(1)

2015年1月18日日曜日 | ラベル: |

 1月17日(土)は阪神淡路大震災から20年目の日ということで、新聞やテレビは大きく報道しています。私は当時関西の都市銀行の子会社の損害保険代理店に勤務していました。
 平成7年(1995年)1月17日(火)は成人の日の連休明けでした。その日は関西から出張して貰って、東西打ち合わせの会議を開くことになっていましたが、地震で吹っ飛んでしまいました。
 このブログの第2回2011年(平成23年)4月15日の阪神淡路大震災に関する部分を再度引用致します。
 『平成7年(1995年)1月17日の朝6時少し前、当時都銀系の損害保険代理店に勤務していた私は、朝食の最中関西で大きな地震が起こったと言うTVのニュースを見ていました。神戸の震度計は振り切れて、ニュースでは最大震度は京都と報じていました。8時ころ会社に出社してTVで見た神戸市街からは何本かの火災の煙が立ち登っていました。大阪の本社とは専用線が通じていましたが誰も出社して来ません。9時近くにようやく連絡が取れ大阪の状況が把握出来ました。
 その朝、或る損害保険会社の神戸の単身赴任寮で、嘗て大きな地震の経験のある社員が、窓の外の状況を見て、大変な地震が起こったと判断し、地震直後でまだ電話が混雑する前に東京本社に「神戸で大変な地震が発生した。」と第一報を入れました。そのため、その会社は初動態勢が圧倒的に上手く行きました。「何が起こったのか」を早く的確に把握することが危機管理の第一歩です。
 私は翌日のJALの最終便で関西空港に向かいました。着陸寸前に機窓から見た神戸の街はまだ赤く燃えていました。会社の神戸支店は当分来て呉れるなと言います。交通機関も水道も途絶していて、外部の人が来るのは迷惑だと言うことです。
 2週間後にJRが住吉まで開通し、三の宮にある支店の水道も復旧したので神戸に向かいました。連絡バスの乗り場は長蛇の列だったので、住吉から三の宮まで歩きましたが、道路は波打っていました。市街地は寒く、断層の上だけが不公平に被害を受けていました。三の宮の商店街は惨憺たるものでした。帰途神戸の波止場から平時は遊覧船のサンタマリア号にすし詰めになって大阪の天保山に帰りました。そこには普通の生活があり、ひどい違和感を覚えました。
 ここに書いたような地震発生直後の経過は、神戸の人は全く判っていませんでした。何故ならば、地震直後はTVも見られず、ラジオも聞くことが出来ず、情報は全く途絶していたからです。(後略)』
 私がリスクマネジメントやBCPの実務に従事するについて、阪神淡路大震災の経験は非常に大きな影響を与えています。以下、幾つかの視点で私の意見を述べます。
①自然災害による死者等の推移
 下記の棒グラフは、戦後の自然災害による死者等の推移表です。
 一番右が1995年(平成7年)1月17日(火)に発生した阪神淡路大震災の死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名の棒グラフです。その左の高い棒グラフは、1959年(昭和34年)9月26(土)の伊勢湾台風の死者4,697人・行方不明者401人負傷者38,921人の棒グラフです。
 言いたいことは、1959年(昭和34年)から1995年(平成7年)までの間の44年間は自然災害による死者等の数は46年間年1,000人以下の低い状態が継続していた、穏やかな状態だったと言うことです。

 その後、2011年(平成23年)3月11日(金)に東日本大震災が発生しました。2015年(平成27年)現在、死者は15,889人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,594人と報じられています。阪神淡路大震災後僅か16年後に死者の数が阪神淡路大震災を遥かに上回る地震が発生した訳です。そして、今首都直下型地震の発生が警告されています。上の棒グラフに見られる穏やかな時代は終わったように思われます。
因みに、1923年(大正12年)9月1日に発生生した関東大震災の死者・行方不明者は10万5千余名とされています。
 自然災害とは異なりますが、第二次世界大戦における、我が国の空襲の人的被害は、戦後の自然災害よりも遥かに大きく、例えば、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の人的被害は、警視庁の調査では死亡8万3793人とされていますが、実数はこれよりも多く、死者・行方不明者の数も10万人以上と言われています。
 1945年(昭和20年)8月6日の広島市の原爆の被害は、広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が死亡したとされています。
1945年(昭和20年)8月9日の長崎市の原爆の被害は、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡したとされています。
 本稿とは関係の無いことですが、戦中派としては戦争の悲惨さを思わずにはいられません。
②被災者の死因
 遺体を検案した監察医のまとめによりますと、阪神淡路大震災の死者6,434名の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとされています。検視の際気管にススが入っていなければ,死後に火災に遭ったことになるということです。
 これに対し東日本大震災の犠牲者の死因の殆どが津波に巻き込まれたことによる水死であって、水死は90.64%(14,308体)とされています。
 首都圏直下地震対策としては、阪神淡路大震災の状況の方が参考にると思います。
 2014年5月1日(木)の記事に書きましたように、東日本大震災における「津波」に当たるものは、首都圏直下型地震では「大火災」です。
 都市銀行の亀戸支店長時代、亀戸には関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)の両方を経験した方が数多くおられました。2回の大火災で生き延びることが出来た理由は、「早期に川を渡って対岸に逃げられたこと。」と異口同音に言われていました。当時は隅田川や江戸川という大きな川を渡って、漸く大火から逃れられた訳です。今は海岸の埋立地に逃げる手もあると思います。

〇DRPの時代に起こった都市直下型地震
 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、BCP((Business Continuity iency Plan)が叫ばれるようになりました。それまではDRP(Disaster Recovery Plan)災害復旧計画の時代でした。阪神淡路大震災は1995年に起こった都市直下型地震ですから、対策面で色々な不備が露呈しています。逆に、当時の記録は反面教師として対策を樹てるのに非常に参考になると思います。
 また、東日本大震災は地方の都市・集落中心の地震なので、首都直下型地震とは異った側面が多いと思います。

今回はここまでに致します。

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BCMSにおける企業トップへのサポート

2015年1月4日日曜日 | ラベル: |

 12月7日(日)に最初にアップした原稿を訂正し、再度アップしましたので12月は1回のみのアップになりました。申し訳ありませんでした。
 2011年4月1日「バラとリスクマネジメント」でスタートしたこのブログは129回目になりました。今年もどうか冝しくお願い申し上げます。

 前回ISO 22301(JIS22301)の「5.リーダーシップ及びコミットメント」に関する部分の議論をご紹介致しました。この点に関し、12月4日に、別の研究会で東京ガスの吉野太郎様から 企業のBCMSや危機管理の実状についての具体的なお話をお聞き出来て大変参考になりましたので今回ご報告申しあげます。
 吉野様からは、昨年8月30日に公表された日本内部統制研究学会のERM部会での報告「企業におけるERMの役割とその実施方法に関する考察」という論文についてのお話をお聞きしました。吉野様は永年に亘り東京ガスのリスクマネジメント、特にERM(Enterprise Risk Management)とBCP(Business continuity plan)の担当者としてご活躍になっておられます。『 』内は「企業におけるERMの役割とその実施方法に関する考察」の記述です。
 但し、「本論文はあくまでも吉野様の一つの見方で、意見に関する部分は,吉野様の個人的な見解であり,吉野様が所属される企業の意見ではない。また,記載した事例等は,公開資料を基に作成したものであり,吉野様が所属される企業の事例ではない。」とされています。
 吉野様は、論文の冒頭で『ERMの第一の役割は,リスク管理部門が,企業全体のリスクとその対応状況を一覧化・総括して経営に報告することにより,リスクマネジメントの観点から経営者の経営の現状把握を支援し,リスク対応についての全体最適の経営判断をサポートすることである。』と言われています。我が国のリスクマネジメントの専門家でこう言っておられる方は非常に少ないと私は思います。
 企業は『平時には,個別具体的なリスクに対しては,各部門・子会社(以下,「各部門」という)が責任を持って対応することが基本となる。経営者がリスクマネジメントに対する最終的な責任を負うことを前提とした上で,各部門は自部門の業務遂行に伴うリスクを自ら把握すると共に,対応策を自ら策定・実施し,自部門におけるリスクマネジメントを整備・運用する役割と責任を負うという分権型組織体制がとられている。』
 危機管理については、『企業におけるERMの第二の役割は,危機管理体制を強化することである。危機管理体制を強化するためには,以下の三点が必要と筆者は考えている。①ERMと危機管理・BCPとの関係を理解し,ERMの一環として危機管理体制を強化すること。②平時のリスクマネジメントと有事のリスクマネジメントとの役割の違いを理解し,それぞれの役割に応じて強化すること。③危機管理体制には,各担当部門長が権限を持つ分権的な体制をとる場合と,社長に権限を一元化する中央集権的な体制をとる場合との二つの類型があること。両者は必要となる事項やリスク管理部門の役割が一部異なることを理解した上で,それぞれの特性に応じて強化することである。』と述べておられます。
 この記述は、前回議論致しました「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」について我が国では如何に行うべきかということに対する、実践的な解決策を示しているものだと私は思います。
 更に『企業では,ERMと危機管理・BCP(Business Continuity Plan 事業継続計画)を別の部門が所管している場合も多い。その場合,ERMと危機管理・BCPとの関係が社内で理解されていないと,両者が別々に整備・運用され,会社全体でリスクマネジメントが統一的に行われず,リスクマネジメントが効率的・効果的に実施されていない場合がある。また,ERMが危機管理体制を強化する手段として活用されていない場合がある。
 企業全体でリスクマネジメントを統一的に実施し,ERMを危機管理強化の手段として活用するためには,危機対応やBCPをERMの一環として行う,もしくはそれらをERMの一部として取り扱うことが必要である。』
 と言っておられ、我が国の企業のERMやBCPの実践に関する問題点を的確に指摘されています。
 『有事のリスクマネジメントの役割は,リスクが顕在化した時に組織として迅速かつ適切に対応することである。そのためには第一に,事案の重要性に応じたしかるべき階層の経営層による意思決定に基づいた対応を行うことが必要である。第二に,事案の重要性を見極め,有事であるか否かの判断を迅速かつ適切に行うため,しかるべき階層の経営者へのリスク情報の迅速な報告と,関係部門による多面的な検証と支援が必要である。』
 『危機管理体制には,各担当部門長が権限を持つ分権的な体制をとる場合と,社長に権
限を一元化する中央集権的な体制をとる場合との2つの類型がある。
(1)部門長が権限を持つ分権的な体制をとる場合(内容省略)
(2)社長に権限を一元化する中央集権的な体制をとる場合
   例えば,大規模な地震,事故,システム障害など,損失拡大のスピードが急速であ
   り、当初から危機であることが明確な場合である。影響範囲が広く,対応に要する
   関係部門の数が多数にのぼり,日常業務の多くを中断して,全社一体となって対応
   に当たる必要がある場合が多い。
   前記(1)の体制であっても,後に社長に権限を一元化した体制で対応することが必要
   と判断された段階で,本体制に移行する。なお,その可否の判断は社長が行う。』
 『権限を社長に一元化する場合の危機管理におけるリスク管理部門の役割は、第一に,経営者のサポートを行うことである。経営者への情報一元化,および指揮命令系統の一元化を確実に行うことにより,経営者が限られた時間の中で,限定的な情報を整理・統合して,企業としてとるべき行動を判断し,実行できるようサポートすることが必要である
 復旧段階におけるリスク管理部門の役割は,第一に必要な復旧対策を実現するために,経営者に予算など経営資源の最適な配分を意思決定するために必要な情報を提供することである。』と言ってられます。
 最後に『企業価値向上の手段は企業特性や経営環境により異なるため,企業が対処すべきリスクも企業により様々である。そして,ERMの役割や実施方法も,企業により異なり,定型化されたものはない。そのため,企業価値向を持続的に向上する手段としてERMを整備・運用するに当たっては,自社の企業特性,経営環境,およびステークホルダーの期待などを総合的に検討して,自社に適した体制を個別に作ることが必要である。本稿を一つの例として,ERMを整備・運用する際の参考にしていただければ幸いである。』とされていますが、このことはBCPの実践についても同様だと私は考えます。
 【 所見 】
 前回のご報告に書きましたように私どもは或る研究会の場で、
 『日本の経営者は、ボトムアップ型の組織の頂点にいて部下の補佐によって職務を遂行するケースが多いため、日本の経営者がISO 22301で想定しているマネジメントスタイルを実行するためには、日本の組織を前提とした補完的なサポート策を加味したやり方を考えるべきではないか。』
 『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ISO22301が要求していることは実行出来ないと思われるので、当面は次善の策として、ERMやBCPの担当者が経営者の判断をサポートして
ISO 22301の要求事項が実行可能となるような対応策を講ずべきである。』
という問題提起をしたのですが、吉野様のお話は我が国の企業においてERMやBCPの担当者が如何に経営者に対して補完的なサポートをするかについての実践的な解決策の一案を提示されていると私は思います。

 
 私は我が国の経営者に対して、ISO22301が要求している事項に関して、基本的な素養や考え方の教育をしっかりと行う必要があると考えます。少なくとも、BCMSにおいて行われようとしている内容が、どうして必要なのか、概略どのようにして行うべきものなのか、どのような効果を持ち、どのような弊害やリスクを伴っているかなどを経営者は理解している必要があります。さもなければ吉野様の言われる「経営者に対するサポート」が活きません。そのような能力は付け焼刃で身に付けようとしても付くものではありません。また、そもそもマネジメントとは何かについてのしっかりとした考え方や哲学が必要で、日本的な経営スタイルでは容易ではないことだと考えます。
 一方、当面の次善の策として、リスクマネジメント、BCPの担当者が経営者をサポートをして、経営者がISO22301が要求している事項の実行が可能となるような対応策を講ずるについても問題が残っています。
 東日本大震災に対する企業の対応に関する報告書、例えば東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会の中間報告書は、「原子力の災害対応に当たる関係機関や関係者、原子力発電所の管理・運営に当たる人々の間で、全体像を俯瞰する視点が希薄であったことは否めない」としています。また、みずほ銀行の「システム障害特別調査委員会」報告書でも「一連の障害を通じて、システム全体を俯瞰でき、かつ、多重障害の陣頭指揮を執り得るマネジメントの人材も不足していた。」ことを指摘しています。
 いずれのケースでも「事故や災害発生時に企業全体を見ている人がいなかった」ということだと思います。「木を見て森を見ず」といいますが、部分、部分の対応ばかりに追われていて、企業が被災時に取る実際の対応について、或いは平素PDCAサイクルを回すについて、更には経営者の判断をサポートするについては、我が国企業の現状を直視した場合、実務体制の再構築が必要な企業が多いのではないかと私は思います。現在の我が国の状況では、リスクマネジメント・BCMの実務担当者に、企業全体を見るという視点が十分ではないと私は思います。私はこれを「経営的視点の欠如」と言いたいのです。
 吉野様が言われるように、リスク管理部門が,企業全体のリスクとその対応状況を一覧化・総括して経営に報告することが可能になるためには、そこに従事している方々に企業全体を見るという視点「経営的視点」が不可欠です。ここにも問題があります。
 今回は悲観論ばかりになりましたが、現実に吉野様のような方も存在されているわけですから、経営者、リスクマネジメント、BCPの担当者の双方の努力によって、望ましい方向に少しでも近づけたらと言うのが、私の結論です。

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