1月17日(土)は阪神淡路大震災から20年目の日ということで、新聞やテレビは大きく報道しています。私は当時関西の都市銀行の子会社の損害保険代理店に勤務していました。
平成7年(1995年)1月17日(火)は成人の日の連休明けでした。その日は関西から出張して貰って、東西打ち合わせの会議を開くことになっていましたが、地震で吹っ飛んでしまいました。
このブログの第2回2011年(平成23年)4月15日の阪神淡路大震災に関する部分を再度引用致します。
『平成7年(1995年)1月17日の朝6時少し前、当時都銀系の損害保険代理店に勤務していた私は、朝食の最中関西で大きな地震が起こったと言うTVのニュースを見ていました。神戸の震度計は振り切れて、ニュースでは最大震度は京都と報じていました。8時ころ会社に出社してTVで見た神戸市街からは何本かの火災の煙が立ち登っていました。大阪の本社とは専用線が通じていましたが誰も出社して来ません。9時近くにようやく連絡が取れ大阪の状況が把握出来ました。
その朝、或る損害保険会社の神戸の単身赴任寮で、嘗て大きな地震の経験のある社員が、窓の外の状況を見て、大変な地震が起こったと判断し、地震直後でまだ電話が混雑する前に東京本社に「神戸で大変な地震が発生した。」と第一報を入れました。そのため、その会社は初動態勢が圧倒的に上手く行きました。「何が起こったのか」を早く的確に把握することが危機管理の第一歩です。
私は翌日のJALの最終便で関西空港に向かいました。着陸寸前に機窓から見た神戸の街はまだ赤く燃えていました。会社の神戸支店は当分来て呉れるなと言います。交通機関も水道も途絶していて、外部の人が来るのは迷惑だと言うことです。
2週間後にJRが住吉まで開通し、三の宮にある支店の水道も復旧したので神戸に向かいました。連絡バスの乗り場は長蛇の列だったので、住吉から三の宮まで歩きましたが、道路は波打っていました。市街地は寒く、断層の上だけが不公平に被害を受けていました。三の宮の商店街は惨憺たるものでした。帰途神戸の波止場から平時は遊覧船のサンタマリア号にすし詰めになって大阪の天保山に帰りました。そこには普通の生活があり、ひどい違和感を覚えました。
ここに書いたような地震発生直後の経過は、神戸の人は全く判っていませんでした。何故ならば、地震直後はTVも見られず、ラジオも聞くことが出来ず、情報は全く途絶していたからです。(後略)』
私がリスクマネジメントやBCPの実務に従事するについて、阪神淡路大震災の経験は非常に大きな影響を与えています。以下、幾つかの視点で私の意見を述べます。
①自然災害による死者等の推移
下記の棒グラフは、戦後の自然災害による死者等の推移表です。
一番右が1995年(平成7年)1月17日(火)に発生した阪神淡路大震災の死者 : 6,434名、行方不明者 : 3名、負傷者 : 43,792名の棒グラフです。その左の高い棒グラフは、1959年(昭和34年)9月26(土)の伊勢湾台風の死者4,697人・行方不明者401人負傷者38,921人の棒グラフです。
言いたいことは、1959年(昭和34年)から1995年(平成7年)までの間の44年間は自然災害による死者等の数は46年間年1,000人以下の低い状態が継続していた、穏やかな状態だったと言うことです。
その後、2011年(平成23年)3月11日(金)に東日本大震災が発生しました。2015年(平成27年)現在、死者は15,889人、重軽傷者は6,152人、警察に届出があった行方不明者は2,594人と報じられています。阪神淡路大震災後僅か16年後に死者の数が阪神淡路大震災を遥かに上回る地震が発生した訳です。そして、今首都直下型地震の発生が警告されています。上の棒グラフに見られる穏やかな時代は終わったように思われます。
因みに、1923年(大正12年)9月1日に発生生した関東大震災の死者・行方不明者は10万5千余名とされています。
自然災害とは異なりますが、第二次世界大戦における、我が国の空襲の人的被害は、戦後の自然災害よりも遥かに大きく、例えば、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の人的被害は、警視庁の調査では死亡8万3793人とされていますが、実数はこれよりも多く、死者・行方不明者の数も10万人以上と言われています。
1945年(昭和20年)8月6日の広島市の原爆の被害は、広島市の人口35万人(推定)のうち9万~16万6千人が死亡したとされています。
1945年(昭和20年)8月9日の長崎市の原爆の被害は、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡したとされています。
本稿とは関係の無いことですが、戦中派としては戦争の悲惨さを思わずにはいられません。
②被災者の死因
遺体を検案した監察医のまとめによりますと、阪神淡路大震災の死者6,434名の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死したとされています。検視の際気管にススが入っていなければ,死後に火災に遭ったことになるということです。
これに対し東日本大震災の犠牲者の死因の殆どが津波に巻き込まれたことによる水死であって、水死は90.64%(14,308体)とされています。
首都圏直下地震対策としては、阪神淡路大震災の状況の方が参考にると思います。
2014年5月1日(木)の記事に書きましたように、東日本大震災における「津波」に当たるものは、首都圏直下型地震では「大火災」です。
都市銀行の亀戸支店長時代、亀戸には関東大震災(1923年)と東京大空襲(1945年)の両方を経験した方が数多くおられました。2回の大火災で生き延びることが出来た理由は、「早期に川を渡って対岸に逃げられたこと。」と異口同音に言われていました。当時は隅田川や江戸川という大きな川を渡って、漸く大火から逃れられた訳です。今は海岸の埋立地に逃げる手もあると思います。
〇DRPの時代に起こった都市直下型地震
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以降、BCP((Business Continuity iency Plan)が叫ばれるようになりました。それまではDRP(Disaster Recovery Plan)災害復旧計画の時代でした。阪神淡路大震災は1995年に起こった都市直下型地震ですから、対策面で色々な不備が露呈しています。逆に、当時の記録は反面教師として対策を樹てるのに非常に参考になると思います。
また、東日本大震災は地方の都市・集落中心の地震なので、首都直下型地震とは異った側面が多いと思います。
今回はここまでに致します。