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飛騨古川では、一晩中雪が降り続きました。宿の窓からの景色です。
八ッ三館の窓からの雪景色
翌日、高山と夜はライトアップの白川郷へ行きました。飛騨には寒い時に行くべきですと、昔勤務した岐阜で言われましたが、その通りだと思いました。
雪の飛騨川です。
「困り果てたのはトイレだった」
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の後に出版された、時事通信社の『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』と言う本があります。阪神淡路大震災に遭遇した時事通信社の現地の方々の経験談です。今首都直下地震に備えて、色々なことが言われています。『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』の内容は今言われていることと大差はありありませんが、実体験に基づく記述ですので迫力があります。
この本の46ページはトイレの話です。「困り果てたのはトイレだった」と言うのが標題です。「トイレ事情も悲惨だった。本山第二小では校庭の隅に穴を掘り、シートで覆ったサッカーゴールを置いて、応急のトイレを作った。穴が1杯になるたびに場所を変えるため、周囲には悪臭が漂う。清掃は全く出来ず衛生状態は最悪だった。(中略)神戸市は地震の2日後からトイレの設置を始めた。しかし、十分に数が確保出来ず、全避難所に設置するには、約2週間かかった。」と記述されています。
私は、ご縁がりありまして2005年(平成17年)中小企業庁の「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議委員になり、その作業の一環として神戸市に阪神淡路大震災当時の状況のヒャリングに行きました。神戸市内の避難所になった小学校の近くの建設業者は「毎朝事務所の前が大小便だらけになり、洗い流すのが日課でした。」と言われました。避難所の小学校で大小便が出来ない避難者は、夜間に近くの路上で大小便をしていた訳です。阪神淡路大震災当時こういったトイレの状況、仮設トイレの問題は全く報道されませんでした。
2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする「中越地震」、2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする「新潟県中越沖地震」においては、仮設トイレの供給が遅れたことが問題になりましたが、公の場で議論されたということは進歩だと思います。更に仮設トイレは洋式が少ないので、高齢者には辛いということも報道されました。
神戸市の「阪神淡路大震災―神戸市の記録 1985年―」には、「避難所580ヶ所に避難民20万人を数え、仮設トイレは2100基~2200基あ必要と考えられた。」と記述されています。
下表は同書による仮設トイレの設置状況です
設置箇所数 | 設置台数 | 直営外収集台数✫ | |
1月 18日 | 7 | 79 | ― |
20日 | 155 | 280 | 25 |
21日 | 216 | 524 | 25 |
31日 | 462 | 2,381 | 25 |
2月 16日 | 546 | *3,012 | 11 |
28日 | 546 | 2,938 | 16 |
3月 31日 | 451 | 2,214 | 13 |
4月 30日 | 304 | 1,216 | 6 |
5月 31日 | 237 |
750
|
4 |
6月 30日 | 186 | 491 | 3 |
7月 31日 | 143 |
392
|
2 |
8月 31日 | 97 | 220 | 2 |
神戸市の避難者は約20万人でした。『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』によれば、首都直下地震においては、避難者は最大720万人と言われています。36倍です。首都直下地震発生時に10万台以上の仮設トイレがすぐ集まるでしょうか。各人は自分でトイレ対策を樹てなければなりません。
東日本大震災における避難所の最大の問題はトイレの問題だったという調査結果があります。「困り果てたのはトイレだった」は今も生きていると考えます。
丁度この原稿を書いている時「日本トイレ研究所」から3月18日(水)に「災害用トイレ研究フォーラム」を開催するとのメールが来ました。参加しようと思います。