「リスクとキャッシュフロー」について  ①

2013年7月20日土曜日 | ラベル: |

 今回からは、私のメインテーマである「リスクとキャッシュフロー」について書きたいと思います。

1. 経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書」
 まず、2011年6月10日(金曜日) のブログでご紹介した経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書*1」に再度触れたいと思います。
  *1:経済産業省 リスクファイナンス研究会報告書(2006年3月)
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1009715


 繰り返しになりますが、同報告書にはリスクファイナンスの意義について、下記のように記述されています。
 「企業においてリスクマネジメントと言った場合、〈如何にしてリスクの顕在化を未然に防ぐか≻をテーマとした事前防止策に重点が置かれており、事故や災害等が発生した後への備えは必ずしも十分に手当てされていないのが実情である。〉企業の事業継続計画(BCP)については、漸くその重要性が認識されつつあるものの、リスクが発生し顕在化し経済的損失が発生した場合に備えて、企業が運転資金、事故対策資金、復旧資金等を事前に手当てしておくこと、すなわちリスクファイナンスの重要性については未だ十分に認識されていない*2」 
  *2 第1部リスクファイナンスの発展に向けて はじめに P.3

 企業経営とリスクファィナンスの関係については、
 「リスクファイナンスとは、‹企業が行う事業活動に必然的に付随するリスクについて、これらが顕在化した際の企業経営へのネガティブインパクトを緩和・抑止する財務的手法≻である。すなわち、事業活動に対して適切な財務手当てが出来ていない場合には、当該事業活動に係るリスクの顕在化により、財基盤が毀損し、企業にとって収益性が高く望ましい投資が阻害される可能性がある。したがって、企業の持続性や競争力を高める上で、リスクファイナンスを含めた戦略的な企業財務が果たす役割は非常に重要である。(後略) 企業価値の最大化(持続的かつ安定的な価値創造の実現)には、適切なリスクファイナンスの取り組みが必要不可欠である*3」 
  *3 第1部リスクファイナンスの発展に向けて 1.リスクファイナンスの経営・財務上の意義 P.6

 更に、メインバンク制度が無くなっている現在の企業財務の在り方にも言及しています。
 『わが国では、メインバンクは、最大の貸出しシェアを占める債権者として、また長期安定的な株主として、企業が災害や事故等により一時的に業績が悪化しても、長期的視野に立ち、事業活動の継続や相応の収益性が見込まれる場合には、(中略)メインバンクは融資先企業のリスクファイナンスをサポートする機能を提供してきたといえる。
 しかし、企業の財務状況、金融環境の変化により、メインバンク制は次第に弱まってきており、企業がデフォルト(倒産)した際にメインバンクが被る損失も相対的に小さくなってきている。このためメインバンクによる企業救済のインセンティブは低下している可能性がある。「いざという時は、メインバンクに資金を手当てしてもらえる」と考えている企業も数多く見られるが、これまで提供されてきたメインバンクによるリスクファイナンス機能は、その提供される度合いや実現性が低下してきている点に留意する必要がある。*4
  *4 第1部リスクファイナンスの発展に向けて Ⅱ.日本におけるリスクファイナンスの現状と課題  P.17

 私は住友銀行に勤務し、メインバンクが企業に対してリスクファイナンス機能を発揮していた時代に、企業調査部門・融資部門に属して働いていました。
 リスクとキャッシュフローを考えるに当たり、先ず「メインバンクによるリスクファイナンス機能」とはどのようなものであったのかから話を始めたいと思います。

2. メインバンクによるリスクファイナンス機能の例 ・
 安宅産業のケース ―メインバンクとしての公共的使命―

(1)安宅産業の歴史と住友銀行との関係
 安宅産業という総合商社が伊藤忠商事と合併して消滅したのは1977年10月1日、今から35年以上前ですからご記憶のない方も多いことと思います。
 安宅産業は1904年(明治37年)に安宅弥吉により個人商店「安宅商会」として創業された老舗です。1919年株式会社に改組され、1943年に「安宅産業」に社名が変更されました。官営八幡製鉄所以来の鉄鋼を主として発展して来た専門商社で、堅実な会社として定評がありました。ただ10大商社の中では第9位で最下位グループに属していました。
 戦後の高度成長期の1965年以降に取扱商品の多様化・国際化を図って背伸びした経営を行い暴走し破局に至りました。メインバンクは住友銀行でした。
 1966年住友銀行の頭取堀田庄三は、安宅産業の人材の欠乏と安宅家との癒着関係(創業者安宅弥吉はすでに亡く、2代目英一の時代に入り、株式を公開し、安宅家の持ち株は極めて僅少になっていて、同社は安宅家の持ち物では無くなっていたにも関わらず前近代的な内部事情が解消されていなかった)ことを憂慮して、安宅産業と住友商事との合併を勧奨し、1966年9月には新社名・住友安宅商事、会長安宅産業社長、社長住友商事社長、合併比率1:1で合意に至りました。然し、1ヶ月後安宅家の反対により堀田頭取の斡旋は実現しませんでした。*5
  *5:住友銀行90年史 1979年 行史編纂委員会 P.669 以下同書と表現する。

 メインバンクのアドバイスを断ったため、爾後住友銀行は融資には慎重になりまし
たが、メインバンク以外から調達した資金を財源に安宅産業は拡大を止めず、メインバンクの融資シェアは遂年低下していきました。

(2)安宅産業の危機発覚とメインバンクの対応
 住友銀行90年史の記述(同書p665~671)によれば、「安宅産業行き詰まりの直接の原因は、カナダのニューファウンドランド・リファイニング・カンパニー(NRC)に対する巨額の売掛金が焦げ付いたこと」でした。
 NRCは石油危機以前に割安であった中東原油を輸入し、米国の東海岸市場へ製品を輸出することを意図した精油所でしたが1973年9月のオイルショックをきっかけに中東原油の価格が値上げされ事業は不可能になっていました。
 安宅アメリカは住友はじめL/C開設銀行に対し、NRCに売り渡した輸入原油に関わる輸入決済手形のロールオーバーを依頼して来ました。これが住友銀行が安宅産業の異変を察知したきっかけでした。1975年9月のことでした。
 安宅アメリカの延滞債権が、安宅産業の存立を根底から揺るがすほどの巨額に上っていることが判明した時点で、安宅産業問題は住友銀行にとって首脳陣自からの進退をかけた大問題になりました。
 安宅産業の危機は、極秘のうちに住友銀行から、大蔵省・日本銀行へ報告され、事態の重大性について政府。日本銀行と住友.協和両主力銀行の認識は完全に一致し、主力2行は関係当局の支持を得ることが出来ました。
 両行の結論は『もし安宅産業の倒産という局面を迎えることになれば、オイルショック以降戦後最大の不況に苦しむ経済界に大きな打撃を与え、同時に外国にも例のない巨大な商業信用を動かしている総合商社の一角が崩れることから、その影響が広がり、ひいては日本の企業・銀行に対する広汎な国際信用不安をひきおこす恐れがある。(中略)「第二の昭和恐慌」の引き金になるかも知れないから、安宅産業の破綻は日本経済のために絶対に避けなければならない。』ということでした。 
 1975年12月7日、毎日新聞が安宅アメリカの多額の焦げ付きをスクープしました。「ニューファウンドランド。リファイニング・カンパニー(NRC)に3奥9000万ドル(当時の為替レートで1,000億円)の債権が焦げ付いている。担保は5%程度」と。

(3)メインバンクとは
 銀行における経験から私は、銀行がメインバンクである条件は
1) 融資シェアがトップである。
に加え、
2)メインバンクは、常に当該企業の状況を十分把握することに努力し、必要と思われる場合には、当該企業の経営に関し苦言を含めたアドバイスをする。
3)当該企業のトップと銀行のトップ(中小企業の場合には銀行取引店のトップ)の間に信頼関係が存する。
ことだと考えます。
 危機発覚時の、安宅産業と住友銀行の関係は、
1) 融資シェアはトップであるが、遂年低下していた。
2) 経営改善に関する頭取の提案を創業家が拒否した。
3) 現経営陣に対する銀行の信頼関係は希薄であった。
と言った状態で、住友銀行は安宅産業の真のメインンバンクであったのかは疑問に思われます。
 そのような状態でも住友銀行の安宅産業への対応は、
『安宅産業の破綻は日本の商社全般に対する国際信用の失墜と、日本の銀行に対する国際的な信用不安を齎し「第二の昭和恐慌」の引き金になるかも知れないから、安宅産業の破綻は日本経済のために絶対に避けなければならない。』でした。
 メインバンクとしての公共的使命に徹し、その処理に当たるということです。日本銀行・大蔵省もこの見解に合意し、メインバンク主導で安宅産業の救済が行われることになりました。
 当時CSR(corporate social responsibility)と言う言葉は、まだ唱えられていませんでした。
 現在の、東京電力、オリンパス、シャープ等の経営危機における銀行の対応と比べる時、著しい違いは、安宅産業の救済は、メインバンクの公共的使命に徹し、メインバンの責任と犠牲において主導したと言う点だと思います。

 (4)伊藤忠商事との合併の軌跡 ①
 住友商事に再度安宅産業の救済を依頼する訳には行きません。翌1976年1月17日「伊藤忠商事と安宅産業は全面的な業務提携に入る。」旨が発表されました。
 1976年6月安宅産業会長に松井弥之助(前タキロン社長)、社長に小松康(住友銀行常務)が就任しました。
 「ある総合商社の挫折」NHK取材班 日本放送出版協会 1977年9月と言う本があります。まえがきには、『我々は、この衝撃的な出来事を一私企業の悲劇としてだけでなく、日本経済の転換期に起きた極めて象徴的な経済事件として捉えたいと考えた。(中略)死に体の安宅産業をいかに影響少なく消滅させるか、それが政府.日銀を巻き込んだ、「日本株式会社」の総力戦の下で行われた企業解体の実態であった。』と記述されています。

 「住友銀行90年史」「ある総合商社の挫折」に書かれている住友銀行の対応は、企業の経営危機におけるメインバンクのCSRの見地からの対応であって、地震や事故発生時のメインバンクの対応とは聊か異なっています。然し、経済産業省の「リスクファイナンス研究会報告書」で言う「リスクファイナンスに対するメインバンクの対応」を考えるについて大いに参考になります。
 当時住友銀行の支店長として勤務していた私の実感も加えて、次回以降安宅産業と伊藤忠商事との合併までの軌跡を辿り、私の考えを述べたいと思います。

 
○「ある総合商社の挫折」NHK取材班 日本放送出版協会 1977年9月
 は「日本の古本屋」詳細検索で見ると、2冊アップされます。 
http://www.kosho.or.jp/public/book/detailsearch.do;jsessionid=9FB677BAC7E06CA55621748AA76C2832