今から62年前の昭和27年(1952年)4月、九州の佐賀高校から現役で京都大学に入学した4人が、「お互い80歳になったので、又時計台の下に集まろう。」ということになり、1月9日に京都へ行って来ました。
昔は「末は博士か大臣か」と言いました。一人は工学部から建設省・工学博士・参議院議員・法務大臣、ノーベル賞を受賞された湯川先生を慕って理学部へ行った一人は上智大学教授・理学博士、もう一人は福井医科大学教授・医学博士になり、何でもないのは法学部へ行った私だけです。
4人とも元気でまだ何かしら仕事を続けていて、夕食の話題も豊富でした。希望に満ちた青春時代を思い出し、感慨に耽った一日でした。
8.事故とキャッシュフロー悪化の事例
(2)雪印乳業
12月10日のブログに、「私が企業に起こった事故とキャッシュフロー悪化のリスクの重要性を最初に実感したのは、平成9年(1997年)2月1日に起きたアイシン精機刈谷第一工場の火災事故についての分析でした。」と書きました。
事故の発生によるキャッシュフローの悪化について、旧住友銀行時代の知識に基づき細かい分析を行った最初の事例が雪印乳業の事故です。
雪印乳業の事故については、セミナーにおける説明や、平成23年1月25日号の「リスク対策Com.」などで屡々述べていますが、再度書きます。
平成12年(2000年)の中毒事故の45年前、昭和30年(1955年)3月にも雪印乳業は東京都で学校給食の粉乳の中毒事故を起こしています。事故の原因は「北海道の工場で、製造中に機械の故障と停電事故が重なったために、原料の牛乳に溶血性ブドウ球菌が発生した。」ことによるものでした。平成12年の中毒事故も、「北海道の工場で停電事故があり、その結果脱脂粉乳に病原性黄色ブドウ球菌が増殖して毒素が発生していた。」ことが原因であると報じられました。「停電による毒素の発生」を繰り返しているので、「過去の失敗が生きていない。」と言われました。何故そうなったのか。
前回の事故の教訓が会社のDNAになっていない理由は、一つは45年と言う時間の経過ですが、根本的には45年前の事故が雪印乳業の業績・キャッシュフローに殆ど影響を与えていなかったことが大きな理由だと私は考えます。もし、前回の事故による業績・キャッシュフローの悪化が雪印乳業の企業の存亡に関わっていたら、時間の経過に関わらず、何時までも事故の教訓は会社の記憶に留まっていたはずだと思います。
(a)業績悪化の対比
‹平成12年の中毒事故による影響≻
下記の損益計算書(単体)に明らかなように、平成12年6月の事故で、事故期の売上は2╱3に激減し、売上総利益も2╱3に激減、経常利益は709億円悪化しました。
○損益計算書 (単位億円)
平成 11 年度実績 | 平成12年度実績 | |||
(11.4.1 - 12.3.31) | (12.4.1 - 13.3.31) |
前年同期比
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前年度比
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売上高
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5.440 | 3.616 | -1,824 | 66.5% |
売上総利益
(同上率)
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1,788 ( 32.9 %) |
1,036 ( 28.7 %) |
-752 ( -4.2 %) |
58.0% |
営業利益
(同上率)
|
112 ( 2.1 %) |
-560 ( -15.5 %) |
-672 ( -17.5 %) |
- |
経常利益
(同上率)
|
122 ( 2.2 %) |
-587 ( -16.2 %) |
-709 ( -18.4 %) |
- |
○平成12年6月に中毒事故発生。
‹昭和30年の中毒事故による影響≻
事故の翌年度(前期末の3月に事故が発生しているので実質事故期)の売上(単体)は18%も増加し、売上総利益も25%増加しています。ただし、純利益(当時は経常利益の記載なし)は悪化していますが、これは事故処理費用が影響していると思われます。事故の業績・キャッシュフローへの影響はほとんどありませんでした。
〇損益計算書 (単位億円)
昭和29年度実績
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昭和30年度実績
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|||
(29.4.1 - 30.3.31)
|
(30.4.1 - 31.3.31)
|
前年同期比
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前年度比
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|
売上高
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72 | 85 | 13 | 118.1 % |
売上総利益
(同上率)
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12 ( 16.7 %) |
15 (17.6%) |
3 (0.9%) |
125.0 % |
営業利益
(同上率)
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3 ( 4.2 %) |
3 ( 3.5 %) |
0 ( -0.7 %) |
100.0 % |
当期純利益
(同上率)
|
1 ( 1.4 %) |
未満 ( 0.0 %) |
-1 (― 1.4 %) |
― |
同じような事故に際し、何故事故の影響がこんなに違ったのかについて、私は以下のように考えています。
1)社会の反応・消費者の反応の相違
昭和30年頃は、製造物責任の思想がまだ確立しておらず、社会の反応・消費者の反応は今日ほど企業にシビアーではありませんでした。昭和30年(1955年)3月の雪印乳業の中毒事故の直後、同年8月に発生した「森永乳業のヒ素ミルク事件*」が欠陥製品による大規模事故の走りで、製造物責任法成立の端緒となりました。
*森永乳業の粉ミルクにヒ素が混入、死者130名、中毒者13,000名発生。
2)事故後の会社側の対応と新聞・テレビ報道の影響の相違
前回の事故の際は社長以下、会社側の対応は誠心誠意であったのに対して、今回は社長が、「わたしは寝ていないんだ」と報道陣に対し発言をしたことが、テレビで放映され、非難されるなど不手際が目立ちました。
昭和30年3月末のNHKのテレビ受信契約者数は僅々5万3千件であった*のに対し、平成12年3月末契約者数は3,688万件です。テレビ報道の消費者に対する影響は非常に大きかったと思われます。 *NHK調べ。
3)販売チャンネルの変化
昭和30年の事故当時は、牛乳は多数の牛乳販売店から各家庭に配達されていました。全国展開のスーパー・コンビニはまだ無く、販売チャンネルは小口分散化されていました。
平成12年の事故当時、私は四谷の雪印乳業本社の近く、九段南の住友銀行の子会社に勤務していました。事故発生後雪印乳業の広報部にコンタクトし、種々お教え頂くことが出来ました。
平成12年の事故発生当時、雪印乳業の製品の約70%がスーパー、コンビニで販売されていました。社長が「わたしは寝ていないんだ」とテレビに向かって話すと、消費者が反応して「あんな会社の製品を売るとはけしからん」とスーパー、コンビニに多数の苦情が寄せられました。その結果、スーパー、コンビニは雪印乳業の製品を一斉に売り場から撤去しました。
その結果、事故の翌月から雪印乳業の売上げは1╱3に激減しました。牛乳で食中毒が起こったのですから、雪印乳業の牛乳が売場から撤去されるのは仕方ありませんが、主力のバターやチーズまで全製品が売り場から撤去されてしまいました。一般大衆向けの商品をスーパー、コンビニで売っている場合の事故によるマーケットのリスクは極めて大きいことがわかります。
このことに関して、雪印乳業提供の番組「料理バンザイ!」に出演しておられた滝田栄氏が平成18年(2006年)7月13日号の週刊文春「阿川佐和子のこの人に会いたい」というコーナーで,次のように言っておられます。
滝田:20年やっていた「料理バンザイ!」という番組が終わってしまって。(中略)
あのときはマスコミの残酷さを感じましたね。
阿川:社長の失言がねえ。
滝田:あの方は本当に1週間くらい寝ずにみんなで必死に原因を調べていて、「わかったら発表する」と言っているのに、記者に「隠してるんだろう」と食い下がられて、キレちゃって「寝てないんだ」と言ったら、そこだけを何回も放送されちゃったんです。
阿川:あのエレベーターの場面だけが強烈に印象に残ってますもんね。
クライシス・マネジメントの見地からは散々酷評されたことですが、こうした見方もあるのだと考えさせられます。
(b)キャッシュフローの悪化
平成12年の中毒事故発生の翌月18日の日本経済新聞朝刊に、「雪印乳業は当座の運転資金用に金融機関から300億円借り入れることを決めた。」と報じられました。
すなわち、わずか半月ほどで手許資金は無くなり、金融機関から借り入れをしなければ雪印乳業のキャッシュフローは破綻する状態になったわけです。
平成12年の事故発生直前の平成12年3月末、雪印乳業の借入金合計42億円に対し、預金残高は144億円だったので、無借金の優良会社だと言われていました。(実は社債残高が600億円ありますのでこの表現には首を傾げます。)しかし、預金残高は雪印乳業の平均月商のわずか0.3ヶ月分で(一般にはリスク発生に備え平均月商の1ヶ月分は保有していることが望まれています。)リスク発生時の財務的な耐性は強固ではなかったと判断されます。
(c)事故発生後の株価推移の対比
にもかかわらず、当時の株価は倒産を予想するような急落は生じませんでした。下記の表に明らかなように、事故直後の株価の最安値が350円(事故直前月の最高値に比し25%程度の下落に過ぎない)と言うことは、投資家は雪印乳業が僅か半月程度で資金繰りに窮するとか、また万一資金繰りに窮したとしても、その場合にメインバンクが支援しないなどと言うことは全く考えていなかったのだと思われます。
○雪印乳業の株価推移 (単位 円)
平成 年 月 | 12 年 5 月 | 12 年 6 月 | 12 年 7 月 | 12 年 8 月 |
月間高値 | 470 Ⓐ | 433 | 404 | 385 |
月間安値 | 405 | 399 | 350 Ⓑ | 350 |
〇東京電力の株価の推移
平成23年3月11日以降の東京電力の状況については、このブログでも屡々書いていますので触れませんが、株価の推移については雪印乳業と大きく異なっています。
○株価推移 (単位 円)
年初来高値 | 2月 23 日 | 2,197 Ⓐ |
年初来安値 | 4月 6 日 | 292 Ⓑ |
事故前後の株価推移を見ると、雪印乳業の株価は事故後も25%くらいしか下落していないのに比し、東京電力の株価は事故後76%くらい大幅に下落しています。
何故、雪印乳業と東京電力の株価の推移がこんなに大きく異なったのでしょうか。
雪印乳業の事故の際、国内各紙は雪印乳業のキャッシュフローの危機について全く報じていません。(会社の足を引っ張る様な記事は書かないのか、実情が判らなかったのか、私はその両方だったと思うのですが。)また、雪印乳業の事故に対し外国のマスコミは無関心だったと思います。
東京電力の場合は、事故後フィナンシャル・タイムスや、ロイター等が東京電力の先行きの経営不安を大きく報じたため、国内マスコミも追随して同様の報道をしました。
雪印乳業の場合は、事故直後売上の急減により資金が枯渇し、7月中旬の融資でキャッシュフローの危機を脱したのに対し、東京電力の場合は、事故発生直後に大きな資金需要が起こったわけでは無く、しかも事故直後の3月末には2兆円(月商の約5ヶ月分)の融資が行われていますので、先行きは兎も角事故直後のキャッシュフローの状況ははむしろ雪印乳業の方が危機であったと判断されます。
当面のキャッシュフローには全く問題が無かったのに東京電力の株価が大幅に下落したのは、マスコミの報道が投資家に大きく影響したものと考えます。私はマスコミの報道は、主として個人投資家の心理に影響したと考えたいのですが、機関投資家の判断にも影響を与えたのか。実態はどうだったのでしょうか。
考えさせられる問題です。