1985年(昭和60年)8月12日(月)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落しました。乗客・乗員520名が死亡、奇跡的な生存者(負傷者)は4名でした。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2015年7月の時点で最多であり、単独機の航空事故でも世界最多です。今年の8月12日で事故後満30年になります。
私は当時住友銀行の研修所長兼東京研修所長として、東京・大阪間を往復していました。銀行は航空会社の大株主で、株主優待券を使うと運賃が安くなります。出張旅費節約のため本部職員はなるべく飛行機を利用することになっていましたので、羽田空港・伊丹空港間を毎週往復していました。前回書きましたように私は乗り物が大好きでしたから、毎週の飛行機での往復は全く苦にならず、むしろ楽しんでいました。
例えば伊丹空港(大阪国際空港)は滑走路が1本なので、大体滑走路のどのあたりに着陸するかが分かります。乗った飛行機によっては、いつもより手前に着陸する、いつもより先の方に着陸する、滑らかに着地する、ドスンと着地するなど色々です。一度着地寸前に急上昇しました。「滑走路前方に飛行機がまだいましたので」とアナウンスされましたが、新聞記事にもなりませんでした。
私は、1985年8月12日の午後6時羽田発日本航空123便に搭乗する予定でした。その日は、午後6時からは銀座にある会社の会議室で京都大学法学部同窓会の幹事会がありました。私は東西往復の生活でなかなか出席出来ず、その日の会合も欠席の「はがき」を出していました。ところが前の週の8月8日(木)の午後、ふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思いました。大阪から東京の幹事会社に電話をしました。社長の秘書の方が「眞崎さん、時にはご出席になって下さい。」とあまり熱心に言われるので予定を変更し、翌13日の朝の便に変えました。
12日午後9時過ぎに帰宅したところ、家内が「日本航空の飛行機が行方不明になっているので、搭乗していたのではないかと大阪の人事部から照会がありました。」と言います。早速大坂に電話をして「乗っていませんでした。」「良かったですネ。」ということになりました。テレビを見ますと乗客名簿が流れていて「ああ、ここに名前が出ていたかも知れなかったのだ。」と思いました。
翌朝、まだ機体が確認されていない午前7時羽田発の日航機に乗りました。機内には新聞がありません。乗客が「新聞は。」と聞くと、乗務員は「今日は積んでおりません。」と答えました。1面に大きく書かれている「日航機行方不明」という新聞は一切ありませんでした。また、朝になっても全国どこの空港にも不時着していないのですから、絶望的な状況であるにも拘わらず「現在弊社の飛行機が行方不明になっておりまして、大変ご心配をおかけしております。」とのアナウンスもありませんでした。墜落が確認されていないから、何も言わない触れないということに当時の日本航空の企業体質が良く表れていると思います。
住友銀行の関係者では、OBの子会社の役員、現役の調査部長のお二人が遭難されました。他人ごとではないので、私はお二人のご葬儀に行きました。調査部長の幼いお子様を見て涙が出ました。
ご遺族に代わってお二人のご遺体の確認にあたられた銀行の部長のお話をお聞きしました。お一方は歯型で、お一方は胸のポケットにあった資料で確認出来たとのことでした。会社の力を借りられず、ご自分たちで遺体の確認をしなければならならなかったご遺族の辛さ、悲惨さは胸を打ちます。遺体安置所の藤岡市内の学校の体育館には死臭が充満し、部長はご帰宅後衣類は焼却したが、髪の毛の死臭がなかなか取れなかったと仰っていました。
7月25日(金)午後7時30分から、NHKの特報首都圏「問い続けた30年 日航機事故の遺児たち」を見ました。
機長の娘さんは、事故直後から「人殺しの娘」と罵られる日々を過ごし、加害者側として生きることを強いられたましたが、最後まで力を尽くした機長の父親に誇りを持って生きて来られ、亡き父親の思いを受け継いで、現在は日本航空の客室乗務員となり、飛行機の安全を守っておられるそうです。
大阪商船三井船舶神戸支店長の河口博次さん(52)の遺体の上着の胸ポケットに
入っていた手帳に7ページにわたって書かれていた遺書も映し出されました。
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
「マリコ 津慶 知代子どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない
今五分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様たすけて下さい
きのうみんなと 食事をしたのは最后とは
何か機内で 爆発したような形で煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ ママこんな事になるとは残念だ さようなら
子供達の事をよろしくたのむ 今六時半だ
飛行機はまわりながら急速に降下中だ
本当に今迄は 幸せな人生だった と感謝している」
○2010/8/10 11:41 日本経済新聞 電子版 『父の「遺言」胸に25年 日航機墜落直前「幸せだった」』 より
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
私の誕生日は8月11日です。事故日は満52歳1日、河口さんと同じ歳です。もし私が搭乗していた場合、こんな立派な遺書が書けたとは到底思えません。戦中派の方から、この遺書が鉛筆で書かれていることについて、「それは軍人の嗜みなのです。」と教えられました。戦時中ですから、万年筆の時代です。インクは血でにじんでしまうので、「遺書は鉛筆で書くものだ。」ということでした。河口博次さんはご立派です。今この文章を書きながらも涙が止まりません。
住友銀行のお得意先ハウス食品工業の浦上郁夫社長、歌手の坂本九さんもこの事故で亡くなられました。
事故後連日悲惨な状況が次々に報道され、誠にキザな話ですが、朝目が覚めると「生きているだけで幸せだ。」と思う毎日でした。暫く経つとまた不平・不満を覚え、事故1年目の色々な特集を観て改めてまた「生きているだけで幸せだ。」と思い直しました。30年目の8月12日に、また想いを新たにすることになります。
「二度あることは三度ある。」と言います。「三度目の正直」とも言います。次回に書きますが、飛行機に乗りたくてたまらず、新婚旅行で初めて飛行機に乗った喜びを忘れられなかった私ですが、「三度目もまた助かるのか」、はたまた「今度こそは駄目なのか」と色々な思いがして、その後は仕事などで止むを得ない場合以外は、積極的には飛行機には乗らないようになりました。
京都大学法学部同窓会の幹事会のメンバーからは「貴方はこの会のお蔭で助かったのだから、一生この会に奉仕しなさい。」と言われ、昨年11月にも京都の大会に出席して来ました。メンバーのお一人はわざわざお祝いの席を設けて下さいました。熱心に会への出席をすすめて下さった幹事会社の秘書の方が結婚退職された時には心ばかりのお祝いを差し上げました。ロンドン赴任に当たり、私に同窓会の幹事を引き継ぐようすすめて下さった銀行同期の友人も命の恩人の一人だと思います。
何故、事故の前の週の8月8日(木)の午後にふと「時には同窓会の会合に出席しなければいけないかな。」と思ったのか、理由は全く見当たりません。運命ということを強く感じます。
事故の翌年銀行を退職しました。銀行生活29年、第二の人生も今年で丁度29年です。幸いに生き永らえた第二の人生を有意義に過ごさなければ神様に申し訳ないと思います。
1985年(昭和60年)8月12日(月)に亡くなられた520名の御霊安かれと心から祈念申し上げます。
続きを読む »
私の戦後70年 航空機の事故について ①
2015年7月18日土曜日 | ラベル: |
6月は郷里の長崎県諫早市で法事があり、1ヶ月休みました。掲載時期が不定期になることをお許しください。
○私の戦後70年 航空機の事故について ①
私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。
1952年4月9日、大阪経由福岡に向かうべく、羽田飛行場を午前7時42分に離陸した日本航空「もく星号」は伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しました。乗客・乗務員37名は全員死亡しました。当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高かったので、乗客は社会的地位の高い人が多く、漫談家の大辻司郎氏や八幡製鐵社長の三鬼隆氏などなどが犠牲となりました。戦後最初の民間航空機の事故です。私は当時京都大学に入学したばかりで、2015年5月17日(日)のブログに書きましたが、1952年5月1日の『血のメーデー』事件とともに、大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します。
1966年 2月4日 、千歳空港を17時55分に離陸し、羽田へ向かっていた全日本空輸 60便 ボーイング 727-100が着陸直前に東京湾に墜落、札幌雪まつりの帰りの観光客で満員の乗員乗客133人全員が死亡しました。次いで、3月4日には、カナダ太平洋航空 402便ダグラス DC-8が濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗して爆発炎上、乗員乗客72人中64人が死亡しました。更にその翌日3月5日には英国海外航空 911便ボーイング 707-420が富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解して墜落し、乗員乗客124人全員が死亡しました。この年は2-3月に民間航空機の大事故が続きました。
私は、1966年2月当時、住友銀行人形町支店に勤務していました。お得意様に今は無い大昭和製紙㈱がありました。1966年2月に私は支店長のお供で大昭和製紙㈱最新鋭の北海道・白老工場の見学に行く予定でした。「丁度札幌で雪まつりをやっています。ご覧になってお帰り下さい。」ということで楽しみにしていました。ところが「大蔵省検査」が行われることになり、白老工場見学は中止になりました。がっかりしていたら全日空機の墜落事故です。白老へ出張していたら、2月4日(金)夜の帰途、全日空機に乗っていたかも知れません。命拾いをしたのかなと当時思いました。
1966年2-3月にかけての航空機事故については柳田邦男氏の名著「マッハの恐怖」に詳しく記述されています。ブログを書くにあたり、改めて読み直し再び感銘しました。
航空工学の権威として著名な木村秀政教授を団長とする事故技術調査団の中で、山
名正夫教授は、実験の結果機体欠陥説を主張されましたが、多数決で「原因は不明」という結論になった過程には心が揺さぶられます。詳しくは同書を是非お読み下さい。
柳田氏は「あとがき」(P.386)で、昭和7年2月27日の午後大阪から福岡へ向けて試験飛行中だった日本航空「白鳩号」墜落事件について触れておられます。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な寺田寅彦博士は、白鳩号の「事故調査委員会のメンバーでした。
『寺田博士は、中央公論昭和10年7月号の「災難雑考」でなかで、この「白鳩号事故調査」の真髄を簡潔に記している。』と柳田氏は紹介しておられます。
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに「機体の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて」「折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して」「引っかき傷の蝋型を取ったのと、それらしい相手の折片の表面にある鋲の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり」、しかも小説に出て来る探偵とちがって、「現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行った。』のである。
その結果、誰一人目撃者のいないこの事故について、空中分解がどこからはじまってどういう順序で破壊が進んでいったのかを明らかにしたのである。そして、事故の原因は補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてあるタンパックルというネジを留める銅線の強度が弱かったために、悪気流でもまれるうちにその銅線が切れてタンパックルがはずれ、補助翼がぶらぶらになって、機体を分解させるような振動を起こしたものだということを、ついにつきとめたのだった。事故から2年を経過していた。寺田寅彦博士は論じている。
『要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それを誰も知らずに安心していた。そういう実に大事なことがこれだけの苦心の研究の結果わかったのである。しかし飛行機を墜落させる原因になる「悪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁に新聞で報ぜられる飛行機事故の継続である。(中略)いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして、眞相を明らかにし、そして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。(中略)
しかし、一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の眞因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が後をたたないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない』(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」より引用)
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
『典的なプロペラ時代のこの指摘が時代の流れを経て、高度なエレクトロニクス文明の時代になった今もなお、生々しい説得力を持っているということは、何を意味するのだろうか。』と柳田氏は慨嘆されています。羽田沖の全日本空輸 60便の墜落事故について、木村秀政教授を団長とする事故技術調査団が多数決で「原因は不明」という結論にされたことに対する柳田氏の思いが良く見て取れます。
私は2011年9月1日(木曜日)のブログ「推理小説とリスクマネジメント」で
「私は推理小説を読むのが大好きです。一回だけ行ったロンドンで、1995年(平成7年)11月1日(水)早朝、宿泊先のモントカームホテルから、シャーロックホームズが住んでいた(ことになっている)「Baker Street 221b」へジョギングし、プレートを見て感激して帰って来ました。」
「色々な手掛かり・情報を基に名探偵が真相を暴き出すについては、論理力に加え、構成力・イマジネーションが不可欠です。リスクマネジメントで将来のリスクを見極めるについても同様の能力が必要だと私は思います。(中略)名探偵、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行には、何れも共通の能力 =論理力、構成力・イマジネーション= が必要だと私は思います。しかもそれは、持って生まれた天性とその後の訓練とが両々相俟つて始めて可能になる能力だと私は思います。」
と書きました。
寺田寅彦博士が『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに』と書いておられることは、将に「我が意を得たり」です。
航空機事故の調査においても、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行においても、「緻密な徹底的な調査を行って、事態の眞相を明らかにし、解決策・対策を樹立する。」という共通の道筋があることを改めて確認出来た思いがします。
次回は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)に向かった日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した事故に際し、私は、その便に乗る予定でしたが、前の週の木曜日8月8日にふと予定を変更し、命拾いをしたことについて書きます。
続きを読む »
○私の戦後70年 航空機の事故について ①
私は小さい時から現在まで乗り物が大好きで、鉄道や民間航空のことを良く記憶しています。
1952年4月9日、大阪経由福岡に向かうべく、羽田飛行場を午前7時42分に離陸した日本航空「もく星号」は伊豆大島の三原山噴火口の東側1Kmの御神火茶屋付近の山腹に墜落しました。乗客・乗務員37名は全員死亡しました。当時飛行機の運賃は他の公共交通に比べ高かったので、乗客は社会的地位の高い人が多く、漫談家の大辻司郎氏や八幡製鐵社長の三鬼隆氏などなどが犠牲となりました。戦後最初の民間航空機の事故です。私は当時京都大学に入学したばかりで、2015年5月17日(日)のブログに書きましたが、1952年5月1日の『血のメーデー』事件とともに、大きなショックを受けたことを今もまざまざと思い出します。
1966年 2月4日 、千歳空港を17時55分に離陸し、羽田へ向かっていた全日本空輸 60便 ボーイング 727-100が着陸直前に東京湾に墜落、札幌雪まつりの帰りの観光客で満員の乗員乗客133人全員が死亡しました。次いで、3月4日には、カナダ太平洋航空 402便ダグラス DC-8が濃霧の中、羽田空港への着陸に失敗して爆発炎上、乗員乗客72人中64人が死亡しました。更にその翌日3月5日には英国海外航空 911便ボーイング 707-420が富士山上空で乱気流に巻き込まれて機体が空中分解して墜落し、乗員乗客124人全員が死亡しました。この年は2-3月に民間航空機の大事故が続きました。
私は、1966年2月当時、住友銀行人形町支店に勤務していました。お得意様に今は無い大昭和製紙㈱がありました。1966年2月に私は支店長のお供で大昭和製紙㈱最新鋭の北海道・白老工場の見学に行く予定でした。「丁度札幌で雪まつりをやっています。ご覧になってお帰り下さい。」ということで楽しみにしていました。ところが「大蔵省検査」が行われることになり、白老工場見学は中止になりました。がっかりしていたら全日空機の墜落事故です。白老へ出張していたら、2月4日(金)夜の帰途、全日空機に乗っていたかも知れません。命拾いをしたのかなと当時思いました。
1966年2-3月にかけての航空機事故については柳田邦男氏の名著「マッハの恐怖」に詳しく記述されています。ブログを書くにあたり、改めて読み直し再び感銘しました。
航空工学の権威として著名な木村秀政教授を団長とする事故技術調査団の中で、山
名正夫教授は、実験の結果機体欠陥説を主張されましたが、多数決で「原因は不明」という結論になった過程には心が揺さぶられます。詳しくは同書を是非お読み下さい。
柳田氏は「あとがき」(P.386)で、昭和7年2月27日の午後大阪から福岡へ向けて試験飛行中だった日本航空「白鳩号」墜落事件について触れておられます。「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉で有名な寺田寅彦博士は、白鳩号の「事故調査委員会のメンバーでした。
『寺田博士は、中央公論昭和10年7月号の「災難雑考」でなかで、この「白鳩号事故調査」の真髄を簡潔に記している。』と柳田氏は紹介しておられます。
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに「機体の折れ目割れ目を一つ一つ番号をつけてはしらみつぶしに調べて」「折れた機材どうしが空中でぶつかったときにできたらしい傷あとも一々たんねんに検査して」「引っかき傷の蝋型を取ったのと、それらしい相手の折片の表面にある鋲の頭の断面と合わしてみたり、また鋲の頭にかすかについているペンキを虫めがねで吟味したり」、しかも小説に出て来る探偵とちがって、「現品調査で見当をつけた考えをあとから一々実験で確かめて行った。』のである。
その結果、誰一人目撃者のいないこの事故について、空中分解がどこからはじまってどういう順序で破壊が進んでいったのかを明らかにしたのである。そして、事故の原因は補助翼を操縦するワイヤーの張力を加減するためにつけてあるタンパックルというネジを留める銅線の強度が弱かったために、悪気流でもまれるうちにその銅線が切れてタンパックルがはずれ、補助翼がぶらぶらになって、機体を分解させるような振動を起こしたものだということを、ついにつきとめたのだった。事故から2年を経過していた。寺田寅彦博士は論じている。
『要するにたった一本の銅線に生命がつながっていたのに、それを誰も知らずに安心していた。そういう実に大事なことがこれだけの苦心の研究の結果わかったのである。しかし飛行機を墜落させる原因になる「悪人」は数々あるので、科学的探偵の目こぼしになっているのがまだどれほどあるか見当はつかない。それがたくさんあるらしいと思わせるのは時によると実に頻繁に新聞で報ぜられる飛行機事故の継続である。(中略)いずれにしても成ろうことならすべての事故の徹底的調査をして、眞相を明らかにし、そして後難を無くするという事は新しい飛行機の数を増すと同様にきわめて必要なことであろうと思われる。(中略)
しかし、一般世間ではどうかすると誤った責任観念からいろいろの災難事故の眞因が抹殺され、そのおかげで表面上の責任者は出ないかわりに、同じ原因による事故の犠牲者が後をたたないということが珍しくないようで、これは困ったことだと思われる。これでは犠牲者は全く浮かばれない』(岩波文庫「寺田寅彦随筆集第五巻」より引用)
✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧✧
『典的なプロペラ時代のこの指摘が時代の流れを経て、高度なエレクトロニクス文明の時代になった今もなお、生々しい説得力を持っているということは、何を意味するのだろうか。』と柳田氏は慨嘆されています。羽田沖の全日本空輸 60便の墜落事故について、木村秀政教授を団長とする事故技術調査団が多数決で「原因は不明」という結論にされたことに対する柳田氏の思いが良く見て取れます。
私は2011年9月1日(木曜日)のブログ「推理小説とリスクマネジメント」で
「私は推理小説を読むのが大好きです。一回だけ行ったロンドンで、1995年(平成7年)11月1日(水)早朝、宿泊先のモントカームホテルから、シャーロックホームズが住んでいた(ことになっている)「Baker Street 221b」へジョギングし、プレートを見て感激して帰って来ました。」
「色々な手掛かり・情報を基に名探偵が真相を暴き出すについては、論理力に加え、構成力・イマジネーションが不可欠です。リスクマネジメントで将来のリスクを見極めるについても同様の能力が必要だと私は思います。(中略)名探偵、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行には、何れも共通の能力 =論理力、構成力・イマジネーション= が必要だと私は思います。しかもそれは、持って生まれた天性とその後の訓練とが両々相俟つて始めて可能になる能力だと私は思います。」
と書きました。
寺田寅彦博士が『航空研究所の岩本周平教授は「シャーロック・ホームズの行き方」さながらに』と書いておられることは、将に「我が意を得たり」です。
航空機事故の調査においても、企業の分析、リスクマネジメントの実践、事業継続計画の策定・遂行においても、「緻密な徹底的な調査を行って、事態の眞相を明らかにし、解決策・対策を樹立する。」という共通の道筋があることを改めて確認出来た思いがします。
次回は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)に向かった日本航空123便ボーイング747SR-100(ジャンボジェット)が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した事故に際し、私は、その便に乗る予定でしたが、前の週の木曜日8月8日にふと予定を変更し、命拾いをしたことについて書きます。
続きを読む »
私の戦後70年
2015年5月17日日曜日 | ラベル: |
ブログのアップをして下さっている方が、海外出張をされたため今回のアップが遅くなりました。
4月12日(日)のブログに、〇城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」を書きました。
住友銀行の旧同僚の方から、自分は『大分県の臼杵のご出身』ではなく、津久見で育ち臼杵に通学(中津留大尉も同様)したので、『津久見・臼杵出身』、お父様は『津久見の特定郵便局長』だと訂正の申し出がありました。謹んで訂正致します。申し訳ありませんでした。
『また遺児の中津留鈴子さんにも、ブログを手紙で知らせます。喜ばれると思います。』とのことでした。
今回も戦中・戦後のことを書きます。
○私の戦後70年
私は昭和8年8月11日生まれです。天皇陛下は昭和8年12月23日のお生まれですから、私は陛下より4ヶ月早く生まれています。
米・英などとの戦争が始まった昭和16年12月8日、私は朝鮮(現韓国)の京城(現ソウル)の南大門国民学校(現小学校)の2年生でした。「米英両国と戦争状態に入れり。」というラジオのニュースを聞いた時は、子供心にも大変なことになったと思いました。
昭和17年11月に父が退官しましたので、九州へ帰り、佐賀市に住むことになりました。佐賀市は郊外の一部が焼夷弾で焼失した他は大きな戦災を受けず、比較的穏やかな戦時中でした。しかし、福岡市の空襲の際は脊振山の向うの空、大牟田市が空襲を受けた際は、南の有明海の向うの空が真っ赤になりました。
軍(大本営)の発表では、常に勝っている筈なのに、戦線が段々後退して本土に近づいて来るのは何故だろうと不思議に思っていましたが、前にも書きましたようにそんなことを言うと「非国民」と言われるので口には出せませんでした。
昭和20年8月15日は国民学校(現小学校)の6年生、学校は夏休みで家にいました。晴れた暑い日でした。ラジオから聞こえる天皇陛下のお声は良く聞き取れませんでしたが、戦争が終わったということは判りました。その晩から、空襲に備えて窓を塞いでいた黒い布を取り去り、明るい電燈の下で暮らせることになったことが、大変印象に残っています。
戦後の食糧不足、アメリカ軍の支配、社会体制の激変などに関しては田舎なので、比較的穏やかな毎日を過ごしました。
1952年(昭和27年)4月京都大学に入学しました。入学直後の5月1日、皇居前広場で学生たちと警官が衝突,『血のメーデー』事件が発生しました。当時の京都大学は全学連の中核的存在でした。翌1953年(昭和28年)11月11日には、京都大学の学生のデモ隊と警察官が鴨川にかかっている荒神橋でもみ合い、学生15名が浅瀬に落下、うち7名が頭蓋骨折を含む重軽傷を負うという「荒神橋事件」が発生、「川端警察署に抗議に行こう。」とか、全学スト決行など、田舎育ちのノンポリ(英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。)の私は右往左往するばかりでした。佐賀へ帰省すると京都大学に行った学生は赤くなっているから(共産党の思想に染まっているの意)付き合わないようにとのお触れが回っていました。
先祖のお墓のある諫早市の郊外の当時の国鉄長崎線の線路のそばを歩いていたら、「何をしている。」と警察官に職務質問されました。大学生が破壊活動を企んでいるのかと疑われた訳です。寄留先の地主の伯父の名前を言って無事放免されました。
就職試験では、「内灘事件(1952年アメリカ軍の砲弾の試射場が必要となり石川県内灘砂丘に決定された。これに対する反対闘争)をどう思いますか」と質問されました。
住友銀行に入行して大阪の支店に配属され、3年後の1960年(昭和35年)5月東京勤務になりました。赴任直後の6月11日に東京大学の学生樺美智子さんが、デモが衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡されました。渋谷の近くの南平台の岸総理大臣の自宅のあたりは「岸を倒せ」のデモ隊で埋まり、東京は政治の中心だと痛感しました。
1969年4月28日の「沖縄デー」では松屋デパートの前の銀座支店にいました。その夜銀座4丁目の交番は焼き打ちされました。男子職員は店を守れと残っていました。支店の前では警官隊とデモ隊が対峙し、あわや市街戦となる寸前にデモ隊が逃げてしまって、支店は無事でした。
1984年(昭和39年)8月30日のお昼、当時亀戸支店長だった私は、お得意様の宮地鉄工所の副社長と、皇居前のパレスホテルの最上階のレストランで食事をしていました。丸の内方面のビルに真っ白な煙が立ち昇り、すぐに地上を多数の消防車や救急車が走り始めました。そこへ「社長が三菱重工業前で重傷を負い、日比谷病院へ運ばれました。」との連絡がありました。副社長に支店長車をお貸しして、日比谷病院に急行して頂き、重傷の社長をかかりつけの関東逓信病院に移し、一命を取り止めることが出来ました。
学生時代、銀行勤務時代共に、政治闘争は身近で、その時々自分は如何に身を処すべきか考えさせられました。
話は変わりますが、1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎氏の長女・美智子様を皇太子妃に迎えることを可決したと発表しました。1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業されていた美智子様は、その年の夏、皇太子様と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子様は美智子様のお人柄に惹かれて自らお妃候補にと言及されたと報道されました。銀行入行2年目、同年代の者としては、時代の変化について強く感ずるものがありました。
私事で恐縮ですが、私の銀行時代の上司の奥様が美智子様の聖心女子大学時代のクラスご担当であった英国児童文学ご専門の猪熊葉子教授、私の家内の従姉妹が美智子様と同クラスだったので、美智子様のことをお聞きする機会が色々ありましたが、誠に良くお出来になったお嬢様だったとの感を強くしています。また美智子様ご成婚後の皇室に対する態度などを拝するにつけ、ご実家の正田家も大変立派なお家だとつくづく思います。
最近、戦後70年に当たり,戦争によって亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,また我が国とパラオ国との友好親善関係に鑑み,天皇皇后両陛下がパラオ同国を御訪問になりました。4月8日はコロール島 、ここは第一次世界大戦後南洋諸島が日本への委任統治領になった時期南洋庁が置かれていました。4月9日は ペリリュー島、ここでも第二次世界大戦で日本軍は玉砕しています。熱帯の地をご高齢の両陛下がわざわざご訪問になるについて、そのお気持ちが強く私の感動を誘います。東日本大震災の被災地ご訪問といい、比較しては不敬にあたるとは重々思いますが、わが身に比べ何とご立派なことかと思います。
前回も書きましたが戦後70年、何が問題だったのか、今後如何にあるべきか。自分の人生も含めて改めて回顧・反省すべきだと痛感しています。
続きを読む »
4月12日(日)のブログに、〇城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」を書きました。
住友銀行の旧同僚の方から、自分は『大分県の臼杵のご出身』ではなく、津久見で育ち臼杵に通学(中津留大尉も同様)したので、『津久見・臼杵出身』、お父様は『津久見の特定郵便局長』だと訂正の申し出がありました。謹んで訂正致します。申し訳ありませんでした。
『また遺児の中津留鈴子さんにも、ブログを手紙で知らせます。喜ばれると思います。』とのことでした。
今回も戦中・戦後のことを書きます。
○私の戦後70年
私は昭和8年8月11日生まれです。天皇陛下は昭和8年12月23日のお生まれですから、私は陛下より4ヶ月早く生まれています。
米・英などとの戦争が始まった昭和16年12月8日、私は朝鮮(現韓国)の京城(現ソウル)の南大門国民学校(現小学校)の2年生でした。「米英両国と戦争状態に入れり。」というラジオのニュースを聞いた時は、子供心にも大変なことになったと思いました。
昭和17年11月に父が退官しましたので、九州へ帰り、佐賀市に住むことになりました。佐賀市は郊外の一部が焼夷弾で焼失した他は大きな戦災を受けず、比較的穏やかな戦時中でした。しかし、福岡市の空襲の際は脊振山の向うの空、大牟田市が空襲を受けた際は、南の有明海の向うの空が真っ赤になりました。
軍(大本営)の発表では、常に勝っている筈なのに、戦線が段々後退して本土に近づいて来るのは何故だろうと不思議に思っていましたが、前にも書きましたようにそんなことを言うと「非国民」と言われるので口には出せませんでした。
昭和20年8月15日は国民学校(現小学校)の6年生、学校は夏休みで家にいました。晴れた暑い日でした。ラジオから聞こえる天皇陛下のお声は良く聞き取れませんでしたが、戦争が終わったということは判りました。その晩から、空襲に備えて窓を塞いでいた黒い布を取り去り、明るい電燈の下で暮らせることになったことが、大変印象に残っています。
戦後の食糧不足、アメリカ軍の支配、社会体制の激変などに関しては田舎なので、比較的穏やかな毎日を過ごしました。
1952年(昭和27年)4月京都大学に入学しました。入学直後の5月1日、皇居前広場で学生たちと警官が衝突,『血のメーデー』事件が発生しました。当時の京都大学は全学連の中核的存在でした。翌1953年(昭和28年)11月11日には、京都大学の学生のデモ隊と警察官が鴨川にかかっている荒神橋でもみ合い、学生15名が浅瀬に落下、うち7名が頭蓋骨折を含む重軽傷を負うという「荒神橋事件」が発生、「川端警察署に抗議に行こう。」とか、全学スト決行など、田舎育ちのノンポリ(英語の「nonpolitical」の略で、政治運動に関心が無いこと、あるいは関心が無い人。)の私は右往左往するばかりでした。佐賀へ帰省すると京都大学に行った学生は赤くなっているから(共産党の思想に染まっているの意)付き合わないようにとのお触れが回っていました。
先祖のお墓のある諫早市の郊外の当時の国鉄長崎線の線路のそばを歩いていたら、「何をしている。」と警察官に職務質問されました。大学生が破壊活動を企んでいるのかと疑われた訳です。寄留先の地主の伯父の名前を言って無事放免されました。
就職試験では、「内灘事件(1952年アメリカ軍の砲弾の試射場が必要となり石川県内灘砂丘に決定された。これに対する反対闘争)をどう思いますか」と質問されました。
住友銀行に入行して大阪の支店に配属され、3年後の1960年(昭和35年)5月東京勤務になりました。赴任直後の6月11日に東京大学の学生樺美智子さんが、デモが衆議院南通用門から国会に突入した際、警官隊と衝突して死亡されました。渋谷の近くの南平台の岸総理大臣の自宅のあたりは「岸を倒せ」のデモ隊で埋まり、東京は政治の中心だと痛感しました。
1969年4月28日の「沖縄デー」では松屋デパートの前の銀座支店にいました。その夜銀座4丁目の交番は焼き打ちされました。男子職員は店を守れと残っていました。支店の前では警官隊とデモ隊が対峙し、あわや市街戦となる寸前にデモ隊が逃げてしまって、支店は無事でした。
1984年(昭和39年)8月30日のお昼、当時亀戸支店長だった私は、お得意様の宮地鉄工所の副社長と、皇居前のパレスホテルの最上階のレストランで食事をしていました。丸の内方面のビルに真っ白な煙が立ち昇り、すぐに地上を多数の消防車や救急車が走り始めました。そこへ「社長が三菱重工業前で重傷を負い、日比谷病院へ運ばれました。」との連絡がありました。副社長に支店長車をお貸しして、日比谷病院に急行して頂き、重傷の社長をかかりつけの関東逓信病院に移し、一命を取り止めることが出来ました。
学生時代、銀行勤務時代共に、政治闘争は身近で、その時々自分は如何に身を処すべきか考えさせられました。
話は変わりますが、1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎氏の長女・美智子様を皇太子妃に迎えることを可決したと発表しました。1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業されていた美智子様は、その年の夏、皇太子様と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子様は美智子様のお人柄に惹かれて自らお妃候補にと言及されたと報道されました。銀行入行2年目、同年代の者としては、時代の変化について強く感ずるものがありました。
私事で恐縮ですが、私の銀行時代の上司の奥様が美智子様の聖心女子大学時代のクラスご担当であった英国児童文学ご専門の猪熊葉子教授、私の家内の従姉妹が美智子様と同クラスだったので、美智子様のことをお聞きする機会が色々ありましたが、誠に良くお出来になったお嬢様だったとの感を強くしています。また美智子様ご成婚後の皇室に対する態度などを拝するにつけ、ご実家の正田家も大変立派なお家だとつくづく思います。
最近、戦後70年に当たり,戦争によって亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,また我が国とパラオ国との友好親善関係に鑑み,天皇皇后両陛下がパラオ同国を御訪問になりました。4月8日はコロール島 、ここは第一次世界大戦後南洋諸島が日本への委任統治領になった時期南洋庁が置かれていました。4月9日は ペリリュー島、ここでも第二次世界大戦で日本軍は玉砕しています。熱帯の地をご高齢の両陛下がわざわざご訪問になるについて、そのお気持ちが強く私の感動を誘います。東日本大震災の被災地ご訪問といい、比較しては不敬にあたるとは重々思いますが、わが身に比べ何とご立派なことかと思います。
前回も書きましたが戦後70年、何が問題だったのか、今後如何にあるべきか。自分の人生も含めて改めて回顧・反省すべきだと痛感しています。
続きを読む »
城山三郎著「指揮官たちの特攻 ― 幸福は花びらのごとく」
2015年4月12日日曜日 | ラベル: |
3月15日(日)のブログに、『住友銀行の旧同僚の方から「南国忌」に誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。』と書きました。今日はその後日談です
彼と「一度お昼ご飯でもご一緒しましょう。」ということになり、3月30日(月)お茶の水の行きつけのフレンチでお昼を食べ、お花見に行って来ました。
先ず、靖国神社に行って、靖国神社境内にある、気象庁が東京の桜の開花宣言をする際の基準木を見た後、「遊就館」へ行きました。
彼は大分県の臼杵のご出身なので、「遊就館」に展示されている臼杵出身の彫刻家日名子実三さんの兵士像、大友宗麟の臼杵城の青銅砲を見て感激している内に、1945年(昭和20年)8月15日午後5時過ぎ(戦争終結の玉音放送の後)沖縄へ特攻出撃された宇佐の第五航空艦隊長官宇垣纏中将の搭乗機を操縦して亡くなった中津留達雄大尉の機上写真が展示されているところで、大きな感動を受けられたご様子でした。「どうしたのですか。」とお聞きしますと、「臼杵で特定郵便局長をしていた、私の父は中津留達雄大尉ご遺族の相談相手だったのです。遺児の鈴子さん(後述)の結婚の際、父は頼まれ仲人をしました。」と申され、城山三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)を是非読んで下さいと言わましたので、早速求めて読みました。
1944年(昭和19年)10月25日、関行男中佐(二階級特進)の率いる神風特別攻撃隊・敷島隊がフィリピンのレイテ島沖で体当たりの攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈しました。神風特別攻撃隊の第一陣です。私は当時国民学校(現在の小学校)5年生でした。敷島隊のことが大々的に報道された時、子供心にも「何というむごいことだ。」と思いました。その後特別攻撃隊出撃のニュース映画を学校から見にいった時、出撃前に挙手の敬礼をされている特別攻撃隊の方々のお顔を見るのが辛かったことを今も鮮明に覚えています。しかし、当時そういった感想を述べると「非国民」と言われましたので心の中にしまい込んでいました。
城山三郎著「指揮官たちの特攻」によれば、関行男中佐と中津留達雄大尉は昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した同期生(第70期)です。
関中佐は特別攻隊第1号で、中津留大尉は最後の特攻を企図した第五航空艦隊長官宇垣纏中将が搭乗した「彗星」を操縦された訳です。最初の特攻隊長・関行男大尉(当時)に対して、中津留大尉は最後の特攻隊長と言われています。
「指揮官たちの特攻」にはお二人の比較が書かれていて大変興味深いのですが割愛します。
中津留大尉は大正11年1月大分県の津久見町で生まれ、臼杵中学から海軍兵学校に入学されました。昭和19年1月宇佐航空隊付教官になり、3ヶ月後結婚されています。その後美保基地を経て、当時の最新鋭機「彗星」1個中隊を率いて大分基地へ行かれました。その際上司の計らいで、お七夜に津久見で初めて娘の鈴子さんに1回限りの父子対面、その3週間後に死亡(戦後死)されています。享年23歳でした。
1945年(昭和20年)8月15日第五航空艦隊長官宇垣纏中将は中津留大尉を呼び、戦争終結を告げず特攻出撃を命じました。午後5時過ぎ中津留大尉率いる彗星11機は出撃しました。指揮官機には宇垣纏中将が乗り込んでいました。宇垣纏中将は山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。その夜、中津留機他一機が沖縄・伊平屋島(いへやじま)に突入したことは確実です。8月15日の夜、米軍キャンプでは明々と電灯をつけ勝利を祝うビア・パーテイ中でした。
城山三郎著「指揮官たちの特攻」では中津留大尉の最後の状況を以下のように推測しています。
「敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中津留は疑問を感じ、その結果戦争が終わったことを知る。(中略)そのとき、天地の暗闇の中でただ1ヶ所,煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命じる。
もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前左へ旋回する。突入を知らせる長音符が普通より長かったという司令部通信室の証言がそれを裏付ける。
編隊での高等飛行で中津留に鍛えあげられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間的に読みとり、もはや方向を変える余裕もないまま、機を引き起こしキャンプの先へ ╍╍ というのが。現地に立っての私の推理である。
(中略)
断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。
騙し打ちにはじまり、騙し打ちに終わる日本は世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。」
中津留大尉は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突し、続く部下機は基地を越えて水田に自爆したと見られています。
住友銀行の旧同僚の方からは、彼の旧住友銀行のOB会会誌への寄稿『中津留大尉の遺徳を偲ぶ ー 日本の名誉を守った救国の青年将校』、雑誌に掲載された遺児中津留鈴子さんの手記『「指揮官たちの特攻」で父に会えた。』、城山三郎氏の対談『中津留大尉の決断』なども送って頂き、全部を読み終わって、改めて深く々々感動しました。
私は幼い日、神風特別攻撃隊の報道について子供心に感じたことを改めて思い浮かべました。戦争は非人間的だと言われます。然し、第二次世界大戦の末期の特別攻撃隊、或いは人間爆弾「桜花」人間魚雷「回天」などの特攻兵器で、有為の若人達を死地に追いやった当時の軍の上層部の考えは、生還の望みの全くない攻撃を部下に命令したもので、個人の人格を全く無視したものであり、戦争の非人間性とは異なったむごいことです。それで、軍国少年だった幼い私は違和感を感じたのだろうと思います。
宇垣纏中将は、敗戦時の8月15日に自決された阿南惟幾陸軍大臣のように一人で自決されるべきだったと私は思います。有為な若者を道連れにするべきではなかったと私は確信します。ただ、その結果中津留大尉は日本の名誉を守った救国の青年将校となられた訳です。
2013年10月1日のブログに書きました「無言館」の戦没画学生の絵画のこと、2013年10月10日のブログに書きました窪島誠一郎様のご著書「夜の歌」の作曲家尾崎宗吉氏の物語、何れも第二次世界大戦が奪った若き才能の物語です。
戦後70年、第二次世界大戦の記憶は薄れる一方です。何が問題だったのか、私たちは改めて回顧すべきだと痛感します。
○千鳥ヶ淵の桜
遊就館見学の後、千鳥ヶ淵の満開の桜を見て帰りました。今回のお花見は嘗て無い強いインパクトを受けたお花見になりました。
続きを読む »
彼と「一度お昼ご飯でもご一緒しましょう。」ということになり、3月30日(月)お茶の水の行きつけのフレンチでお昼を食べ、お花見に行って来ました。
先ず、靖国神社に行って、靖国神社境内にある、気象庁が東京の桜の開花宣言をする際の基準木を見た後、「遊就館」へ行きました。
彼は大分県の臼杵のご出身なので、「遊就館」に展示されている臼杵出身の彫刻家日名子実三さんの兵士像、大友宗麟の臼杵城の青銅砲を見て感激している内に、1945年(昭和20年)8月15日午後5時過ぎ(戦争終結の玉音放送の後)沖縄へ特攻出撃された宇佐の第五航空艦隊長官宇垣纏中将の搭乗機を操縦して亡くなった中津留達雄大尉の機上写真が展示されているところで、大きな感動を受けられたご様子でした。「どうしたのですか。」とお聞きしますと、「臼杵で特定郵便局長をしていた、私の父は中津留達雄大尉ご遺族の相談相手だったのです。遺児の鈴子さん(後述)の結婚の際、父は頼まれ仲人をしました。」と申され、城山三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮文庫)を是非読んで下さいと言わましたので、早速求めて読みました。
1944年(昭和19年)10月25日、関行男中佐(二階級特進)の率いる神風特別攻撃隊・敷島隊がフィリピンのレイテ島沖で体当たりの攻撃を行い、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈しました。神風特別攻撃隊の第一陣です。私は当時国民学校(現在の小学校)5年生でした。敷島隊のことが大々的に報道された時、子供心にも「何というむごいことだ。」と思いました。その後特別攻撃隊出撃のニュース映画を学校から見にいった時、出撃前に挙手の敬礼をされている特別攻撃隊の方々のお顔を見るのが辛かったことを今も鮮明に覚えています。しかし、当時そういった感想を述べると「非国民」と言われましたので心の中にしまい込んでいました。
城山三郎著「指揮官たちの特攻」によれば、関行男中佐と中津留達雄大尉は昭和16年11月15日に海軍兵学校を卒業した同期生(第70期)です。
関中佐は特別攻隊第1号で、中津留大尉は最後の特攻を企図した第五航空艦隊長官宇垣纏中将が搭乗した「彗星」を操縦された訳です。最初の特攻隊長・関行男大尉(当時)に対して、中津留大尉は最後の特攻隊長と言われています。
「指揮官たちの特攻」にはお二人の比較が書かれていて大変興味深いのですが割愛します。
中津留大尉は大正11年1月大分県の津久見町で生まれ、臼杵中学から海軍兵学校に入学されました。昭和19年1月宇佐航空隊付教官になり、3ヶ月後結婚されています。その後美保基地を経て、当時の最新鋭機「彗星」1個中隊を率いて大分基地へ行かれました。その際上司の計らいで、お七夜に津久見で初めて娘の鈴子さんに1回限りの父子対面、その3週間後に死亡(戦後死)されています。享年23歳でした。
1945年(昭和20年)8月15日第五航空艦隊長官宇垣纏中将は中津留大尉を呼び、戦争終結を告げず特攻出撃を命じました。午後5時過ぎ中津留大尉率いる彗星11機は出撃しました。指揮官機には宇垣纏中将が乗り込んでいました。宇垣纏中将は山本五十六連合艦隊司令長官の元参謀長です。その夜、中津留機他一機が沖縄・伊平屋島(いへやじま)に突入したことは確実です。8月15日の夜、米軍キャンプでは明々と電灯をつけ勝利を祝うビア・パーテイ中でした。
城山三郎著「指揮官たちの特攻」では中津留大尉の最後の状況を以下のように推測しています。
「敵機も敵艦船の姿も全くないことから、中津留は疑問を感じ、その結果戦争が終わったことを知る。(中略)そのとき、天地の暗闇の中でただ1ヶ所,煌々と灯のついた泊地が見えてきた。泊地は中津留隊の第四の攻撃目標であり、宇垣は突入を命じる。
もはや議論の余裕は無く、中津留は突入電を打たせ、突入すると見せて、寸前左へ旋回する。突入を知らせる長音符が普通より長かったという司令部通信室の証言がそれを裏付ける。
編隊での高等飛行で中津留に鍛えあげられてきた部下は、指揮官機の意図を瞬間的に読みとり、もはや方向を変える余裕もないまま、機を引き起こしキャンプの先へ ╍╍ というのが。現地に立っての私の推理である。
(中略)
断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。
騙し打ちにはじまり、騙し打ちに終わる日本は世界中の非難を浴び、軍はもちろん、あれほど護持しようとした皇室もまた吹き飛ぶことになったかも知れない。」
中津留大尉は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突し、続く部下機は基地を越えて水田に自爆したと見られています。
住友銀行の旧同僚の方からは、彼の旧住友銀行のOB会会誌への寄稿『中津留大尉の遺徳を偲ぶ ー 日本の名誉を守った救国の青年将校』、雑誌に掲載された遺児中津留鈴子さんの手記『「指揮官たちの特攻」で父に会えた。』、城山三郎氏の対談『中津留大尉の決断』なども送って頂き、全部を読み終わって、改めて深く々々感動しました。
私は幼い日、神風特別攻撃隊の報道について子供心に感じたことを改めて思い浮かべました。戦争は非人間的だと言われます。然し、第二次世界大戦の末期の特別攻撃隊、或いは人間爆弾「桜花」人間魚雷「回天」などの特攻兵器で、有為の若人達を死地に追いやった当時の軍の上層部の考えは、生還の望みの全くない攻撃を部下に命令したもので、個人の人格を全く無視したものであり、戦争の非人間性とは異なったむごいことです。それで、軍国少年だった幼い私は違和感を感じたのだろうと思います。
宇垣纏中将は、敗戦時の8月15日に自決された阿南惟幾陸軍大臣のように一人で自決されるべきだったと私は思います。有為な若者を道連れにするべきではなかったと私は確信します。ただ、その結果中津留大尉は日本の名誉を守った救国の青年将校となられた訳です。
2013年10月1日のブログに書きました「無言館」の戦没画学生の絵画のこと、2013年10月10日のブログに書きました窪島誠一郎様のご著書「夜の歌」の作曲家尾崎宗吉氏の物語、何れも第二次世界大戦が奪った若き才能の物語です。
戦後70年、第二次世界大戦の記憶は薄れる一方です。何が問題だったのか、私たちは改めて回顧すべきだと痛感します。
○千鳥ヶ淵の桜
遊就館見学の後、千鳥ヶ淵の満開の桜を見て帰りました。今回のお花見は嘗て無い強いインパクトを受けたお花見になりました。
続きを読む »
九段三丁目町会の防災訓練
2015年3月29日日曜日 | ラベル: BCP, リスクマネジメント |
私が主宰する日本ナレッジマネジメント学会の第93回リスクマネジメント研究部会を3月25日に開催しました。講師は九段三丁目町会会長の細内進様です。
『1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内の各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。(中略)翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ、今日も行われている。』と靖国神社百年史に記述されているというお話から始まりました。靖国神社も九段三丁目町会の町会員です。細内様は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時は小学校の低学年だっため、集団疎開に行かず九段に住んでいたため、靖国神社の塀のところから自宅が焼け落ちるのを見ておられたそうです。東京大空襲のご記憶のある数少ない方です。
2014年5月1日のブログに書きました東京都の「地域危険度一覧表」を見ますと千代田区九段南は、建物倒壊危険度・火災危険度・総合危険度いずれも最も安全な(1)ランクの地区です。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/1chiyoda.htm
2011年( 平成23年)3月11日東日本大震災当日、靖国神社の前の靖国通りは、
徒歩で帰宅する人で溢れました。この日も社地は一休みする人たちで一杯になりました。靖国神社は対応に苦慮されましたが、幸い人々はまた歩き出したので事なきを得た由です。
細内様は昭和8年創業の老舗の洋菓子屋「ゴンドラ」の2代目です。デパート等には
出店せず、ご自分のお店だけで美味しいお菓子を作っておられます。1961年(昭和36年)スイス国立リッチモンド製菓学校をアジア人として初めて卒業、国際菓子コンクールの審査員もなさっています。岸朝子さんがご本で激賞しておれます。
阪神淡路大震災の折、近所付き合いの良かった地区では、地震直後「誰々さんの姿が見えない。」ということで,近隣の方々が倒壊家屋に閉じ込められた方々を救出して、怪我の手当てをしたり、その後の火災による焼死を防止したというのは有名な話です。
東京大学の故廣井治脩先生が中心になって纏められた「1995年阪神・淡路大震災調査報告」35ページに廣井先生は「阪神・淡路大震災と住民の行動」という論文を寄せておられます。
『今回の地震で痛感したのは、震度7の激震に遭遇すれば、警察や消防などの防災機関がどんなに努力しても限界があり、住民の一人一人が自分で自分の身を守らざるを得ない、ということであった。震災の被災地において、周囲の倒壊家屋の下から聞こえてくる「助けてくれー」という声に多くの人が必死になって瓦礫をを取り除いたとしばしば聞いた。また、一般家庭から出た火災を地域の人が必死に消火したと聞いている。(中略)地域住民の献身的な活動がなければ、人的被害はもっと大きくなっただろうし、火災の延焼ももっと拡大していたであろう。』と書いておられます。
九段三丁目地区も従来からの住民は近隣の付き合いが濃密なのですが、相続税対策などでお屋敷が売られ、高層マンションになるとそこの住民はあまり近所付き合いをされないというのが町会長さんの悩みの種です。折角の災害対策の備蓄品や、特に九段地区は上水道の地下備蓄タンクまであるのですが、それが利用出来ない訳です。「町会の行事にお誘いして、なるべく付き合いをして頂くようにしてはいるのですが。」ということでした。
細内様が苦労しておられる。町内会の防災活動は、来るべき首都直下地震に対応する極めて大事な活動だと痛感します。
地震発生時の避難所は原則公立の学校です。2011年(平成23年)3月11日14時46分東日本大震災発生時、避難所の九段小学校はまだ授業中で校門は閉まったままでした。また九段小学校は九段の高台から坂を下ったところにあり、通常は高いところにに避難するものなので、町会長としては如何なものかと思っていたところ、靖国神社に隣接した高台にある、三輪田学園から百年記念館の2F・3Fを避難所に提供します。」という申し出がありました。区は私立学校だからと言って首を縦に振りません。永年の折衝のあげく、一時避難所として認めて貰うことになりました。九段三丁目町会と三輪田学園との「災害時における一時避難所に関する協定書」で「協力期間は原則3日間(これが行政の建前です)以内とする。ただし協議の上延長することが出来る。」ということで解決したという苦心談をお聞きしました。
私事で恐縮ですが三輪田学園(旧三輪田高等女学校)は私の母の母校です。過日大正10年3月卒業の母の日本画の宿題の何枚かを捨てるに忍びず「差し上げたい。」と三輪田学園に申し出たところ,三輪田理事長様が受け取って下さいました。その際母の卒業アルバムのコピーを頂きました。平岡家に嫁がれた三島由紀夫様のご母堂、橋倭文重様や「坂の上の雲」の秋山真之のお兄様で我が国の騎兵隊の創設者である秋山好古将軍のお嬢様などが母のクラスで並んで写っていて、子供としては感動しました。
その際、三輪田理事長から「プールの水を利用して下水のマンホールの上に簡易トイレを設置する予定です。また地震発生時には、京浜地区の最寄りの私立学校同志で学生の避難を受け入れる協定をしています。」等のお話をお聞きし、先の九段三丁目町会との「一時避難所に関する協定書」の件といい、防災に大変理解のある学校だと思いました。
千代田区のホームページに「成26年3月10日(月曜日)に九段三丁目町会の防災訓練が行われました」という記事が掲載されています。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/fujimi/shinchaku/h260310.html
「これは災害時の一時避難場所として、三輪田学園が百年記念館小講堂を開放していただけることになったことを踏まえて、行われた訓練です。会場の内外で、応急時の三角巾の使用訓練、スタンドパイプ取扱訓練、初期消火訓練などに、80名の参加者が熱心に取り組みました。(以下略)」
草の根の防災対策熱心に取り組んでおられる細内様のご努力に深く敬意を表したいと思います
続きを読む »
『1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の折、旧麹町区内の各所に火災が発生した。靖国神社は境内・外苑を解放し、社地には避難者が充満した。(中略)翌年以降9月1日には「神恩奉謝祭」が行われ、今日も行われている。』と靖国神社百年史に記述されているというお話から始まりました。靖国神社も九段三丁目町会の町会員です。細内様は1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の時は小学校の低学年だっため、集団疎開に行かず九段に住んでいたため、靖国神社の塀のところから自宅が焼け落ちるのを見ておられたそうです。東京大空襲のご記憶のある数少ない方です。
2014年5月1日のブログに書きました東京都の「地域危険度一覧表」を見ますと千代田区九段南は、建物倒壊危険度・火災危険度・総合危険度いずれも最も安全な(1)ランクの地区です。
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/1chiyoda.htm
2011年( 平成23年)3月11日東日本大震災当日、靖国神社の前の靖国通りは、
徒歩で帰宅する人で溢れました。この日も社地は一休みする人たちで一杯になりました。靖国神社は対応に苦慮されましたが、幸い人々はまた歩き出したので事なきを得た由です。
細内様は昭和8年創業の老舗の洋菓子屋「ゴンドラ」の2代目です。デパート等には
出店せず、ご自分のお店だけで美味しいお菓子を作っておられます。1961年(昭和36年)スイス国立リッチモンド製菓学校をアジア人として初めて卒業、国際菓子コンクールの審査員もなさっています。岸朝子さんがご本で激賞しておれます。
阪神淡路大震災の折、近所付き合いの良かった地区では、地震直後「誰々さんの姿が見えない。」ということで,近隣の方々が倒壊家屋に閉じ込められた方々を救出して、怪我の手当てをしたり、その後の火災による焼死を防止したというのは有名な話です。
東京大学の故廣井治脩先生が中心になって纏められた「1995年阪神・淡路大震災調査報告」35ページに廣井先生は「阪神・淡路大震災と住民の行動」という論文を寄せておられます。
『今回の地震で痛感したのは、震度7の激震に遭遇すれば、警察や消防などの防災機関がどんなに努力しても限界があり、住民の一人一人が自分で自分の身を守らざるを得ない、ということであった。震災の被災地において、周囲の倒壊家屋の下から聞こえてくる「助けてくれー」という声に多くの人が必死になって瓦礫をを取り除いたとしばしば聞いた。また、一般家庭から出た火災を地域の人が必死に消火したと聞いている。(中略)地域住民の献身的な活動がなければ、人的被害はもっと大きくなっただろうし、火災の延焼ももっと拡大していたであろう。』と書いておられます。
九段三丁目地区も従来からの住民は近隣の付き合いが濃密なのですが、相続税対策などでお屋敷が売られ、高層マンションになるとそこの住民はあまり近所付き合いをされないというのが町会長さんの悩みの種です。折角の災害対策の備蓄品や、特に九段地区は上水道の地下備蓄タンクまであるのですが、それが利用出来ない訳です。「町会の行事にお誘いして、なるべく付き合いをして頂くようにしてはいるのですが。」ということでした。
細内様が苦労しておられる。町内会の防災活動は、来るべき首都直下地震に対応する極めて大事な活動だと痛感します。
地震発生時の避難所は原則公立の学校です。2011年(平成23年)3月11日14時46分東日本大震災発生時、避難所の九段小学校はまだ授業中で校門は閉まったままでした。また九段小学校は九段の高台から坂を下ったところにあり、通常は高いところにに避難するものなので、町会長としては如何なものかと思っていたところ、靖国神社に隣接した高台にある、三輪田学園から百年記念館の2F・3Fを避難所に提供します。」という申し出がありました。区は私立学校だからと言って首を縦に振りません。永年の折衝のあげく、一時避難所として認めて貰うことになりました。九段三丁目町会と三輪田学園との「災害時における一時避難所に関する協定書」で「協力期間は原則3日間(これが行政の建前です)以内とする。ただし協議の上延長することが出来る。」ということで解決したという苦心談をお聞きしました。
私事で恐縮ですが三輪田学園(旧三輪田高等女学校)は私の母の母校です。過日大正10年3月卒業の母の日本画の宿題の何枚かを捨てるに忍びず「差し上げたい。」と三輪田学園に申し出たところ,三輪田理事長様が受け取って下さいました。その際母の卒業アルバムのコピーを頂きました。平岡家に嫁がれた三島由紀夫様のご母堂、橋倭文重様や「坂の上の雲」の秋山真之のお兄様で我が国の騎兵隊の創設者である秋山好古将軍のお嬢様などが母のクラスで並んで写っていて、子供としては感動しました。
その際、三輪田理事長から「プールの水を利用して下水のマンホールの上に簡易トイレを設置する予定です。また地震発生時には、京浜地区の最寄りの私立学校同志で学生の避難を受け入れる協定をしています。」等のお話をお聞きし、先の九段三丁目町会との「一時避難所に関する協定書」の件といい、防災に大変理解のある学校だと思いました。
千代田区のホームページに「成26年3月10日(月曜日)に九段三丁目町会の防災訓練が行われました」という記事が掲載されています。
http://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/fujimi/shinchaku/h260310.html
「これは災害時の一時避難場所として、三輪田学園が百年記念館小講堂を開放していただけることになったことを踏まえて、行われた訓練です。会場の内外で、応急時の三角巾の使用訓練、スタンドパイプ取扱訓練、初期消火訓練などに、80名の参加者が熱心に取り組みました。(以下略)」
草の根の防災対策熱心に取り組んでおられる細内様のご努力に深く敬意を表したいと思います
続きを読む »
「阪神淡路大震災の回顧」(5) 「阪神大震災その時企業は」
2015年3月15日日曜日 | ラベル: BCP, リスクマネジメント |
旧住友銀行の同僚の方から「私がボランティアで手伝っている<南国忌>にいらっしゃいませんか」と誘われ、2月22日(日)に横浜市金沢区富岡東にある長昌寺へ行って来ました。
<南国忌>は直木賞に名を残す作家直木三十五の命日である2月24日前後の休日に、直木三十五を偲んで彼のお墓のある長昌寺で行われる会合です。私は直木三十五の代表作で、<南国忌>の名前の謂れである「南国太平記」は父の書架にあったものを高校時代に読みました。当日は法要と募参の後、元文藝春秋常務取締役の竹内修司様から、直木賞を受賞した井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」誕生の秘話を含む「実録・ジョン万次郎漂流記」という講演をお聞きしました。竹内様のお話によると、
ジョン万次郎は土佐国中濱村の漁師の子で、貧乏で読み書きも殆ど出来なかった人物です。1841年(天保12年)出漁中に嵐にあって伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、143日後奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は頭の良さを船長に気に入られ、船長と一緒に暮らし、アメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は捕鯨船の副船長にまでなりました。1850年(嘉永3年)に帰国を決意し、ハワイにいた嘗ての漁師仲間と共に1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸します。その後の詳しいいきさつは省略しますが、1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎を幕府に召聘し、直参の旗本の身分を与えました。土佐の貧しい漁師の子のアメリカから得て来た知識が、開国という大変な時期に幕府ひいては日本の国に大いに貢献したという大変刺激的なお話でした。色々な会合には出てみるものだと思いました。
お隣に座っていた方から送って頂いた<南国忌>の写真を許可を得て掲載致します。

〇直木三十五の墓所の掲示
〇墓参
〇元文藝春秋常務取締役の竹内修司様の講演
その方は天文学に詳しく、英文学者で戦前・戦後に天文学の普及・啓蒙に努められた野尻抱影氏の話題になりました。「今日竹内様が井伏氏の直木賞受賞選考の経緯でお話された作家の大佛次郎氏の本名は野尻清彦で、野尻抱影氏の弟さんです。」と申し上げました。「野尻清彦さんは私の父の旧制第一高等学校のクラスメイトなので、そのことを父から聞いていました。」などとその方と話が弾み、楽しい午後になりました。
閑話休題、本来のテーマに戻ります。
「阪神淡路大震災の回顧」(5)
「阪神大震災その時企業は」
1995年(平成7年)4月阪神淡路大震災の直後に出版された、日本経済新聞社の『阪神大震災 その時企業は 徹底検証 危機管理』と言う本があります。
1.流通大手の決断
この本の12ページ以下は当時のダイエー中内功会長兼社長の話です。
東京・田園調布にあった中内社長の自宅に阪神淡路大震災による店舗の被害状況の第一報が入ったのは、地震発生後35分後の6時20分でした。午前8時、中内社長は東京・芝のダイエー本社で地震対策本部会議を開催、被災地の店舗の営業再開を指示、関連会社の「ローソン」にもその方針が伝えられました。1月17日(火)はダイエーの多くの店舗は定休日でしたが、兵庫県内47店舗中25店が地震当日営業しました。ローソンは18日時点で273店舗中194店が営業にこぎつけました。
「ダイエーはなぜこれだけ素早く動けたのか ―― 中内氏が創業者の実力社長であり、様々な決断を合議ではなく一人で次々に下していけたことがその背景にある。」と同書は記述しています。地震当日中内氏は地震対策本部には会議の冒頭に顔を出しただけで、自室にこもり、対策本部からの被害状況の報告に対してトップダウンで自らの決断を下しました。
昨年12月9日(火)のブログの記事「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で、『ISO22301の「5.1 リーダーシップ及びコミットメント」では、先ず「トップマネジメントにある者は,BCMS に関してリーダーシップを実証しなければならない。」とされています。このISO22301で想定しているマネジメントスタイルは、欧米、特に米英豪型のものであり、その観点からは当然の内容ですが、わが国の企業に持ち込む場合、これを実行することは容易なことでは無いと思われます。』(中略)『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し、欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ここで要求されていることは実行出来ないと思われます。』と書きました。阪神淡路大震災の時の中内社長はまさにISO2230が要求している通りのことを実行された訳で高く評価されるべきだと私は思います。
4.生産ライン確保に走るメーカー
この本の25ページ以下はトヨタの話です。『阪神淡路大震災発生当日、トヨタの豊田達郎社長と5人の副社長は東京にいました。首脳陣は「対策本部」の設置を決める一方、生産担当である大西服副社長は豊田本社へトンボ帰りをする。この時点で工場稼働を含め、生産に関することは大西副社長に決定権が委ねられた。17日正午から午後2時までの間に生産部門からの応援部隊の第一陣が現地へ向けて出発、』と記述されています。
トヨタも「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で要求されていることを実行しています。
私は、平成17年6月から中小企業庁「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議メンバーになりました。作業の一環として、その年の8月に受託の三菱総合研究所の方々とご一緒に神戸に行き、阪神淡路大震災の時の中小企業の状況のヒャリングを行いました。
何社かお伺いした中に、トヨタの孫請けの精密プレス加工の会社がありました。その企業の精密プレス加工は、トヨタにおける自動車生産の継続について必要不可欠の部分であるとトヨタは判断していたと思われます。阪神淡路大震災発生後、トヨタはその会社に応援要員をヘリコプターで送り込んで、精密プレス機械の調整・稼働の支援を行いました。プレス加工はガスが通じていなくても稼働出来ますが、電気と水は不可欠です。工場の高いところにあるタンクに水を補給するため、トヨタはポンプ付の給水車を回して来ました。何日か経つと、お弁当の中身に飽きたでしょうと、お昼のお弁当も豊田市から空輸されました。トヨタからの派遣要員は、その会社の方々が食事を済ませた後にお弁当を食べていたそうです。
「こちらから応援を頼んだわけではなかったのです。トヨタの仕事をしていて、本当に良かったと思います。」とその会社の会長さんがしみじみと仰っていました。
事業継続計画は2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、非常時の際の準備が整っていた金融機関などが事件後速やかに事業を再開・継続したことから、喧しく叫ばれ始めたことです。1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時は災害復旧計画の時代でした。その時代にトヨタが生産工程に不可欠な部品の精密プレス加工の孫請けの会社を支援したというのは、驚くべきことだと私は思います。
2007年(平成19年)7月16日 - リケンの柏崎工場が新潟県中越沖地震で被災し、その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止した際、トヨタの技術者が真っ先に支援のために駆けつけ、国内乗用車メーカー各社が追随しました。私は流石トヨタだと再度感銘しました。経営者のリーダーシップ、及びきめ細かな事業継続計画の好事例が1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時に既にありました。
重ねて書きますが、今東北大震災の回顧が盛んです。それも重要なことですが、首都直下地震対策のためには、阪神淡路大震災の記録をもっともっと活用すべきだと私は思います。
続きを読む »
<南国忌>は直木賞に名を残す作家直木三十五の命日である2月24日前後の休日に、直木三十五を偲んで彼のお墓のある長昌寺で行われる会合です。私は直木三十五の代表作で、<南国忌>の名前の謂れである「南国太平記」は父の書架にあったものを高校時代に読みました。当日は法要と募参の後、元文藝春秋常務取締役の竹内修司様から、直木賞を受賞した井伏鱒二著「ジョン万次郎漂流記」誕生の秘話を含む「実録・ジョン万次郎漂流記」という講演をお聞きしました。竹内様のお話によると、
ジョン万次郎は土佐国中濱村の漁師の子で、貧乏で読み書きも殆ど出来なかった人物です。1841年(天保12年)出漁中に嵐にあって伊豆諸島の無人島・鳥島に漂着し、143日後奇跡的にアメリカの捕鯨船に救助されました。万次郎は頭の良さを船長に気に入られ、船長と一緒に暮らし、アメリカの学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。彼は捕鯨船の副船長にまでなりました。1850年(嘉永3年)に帰国を決意し、ハワイにいた嘗ての漁師仲間と共に1851年(嘉永4年)2月2日琉球へ上陸します。その後の詳しいいきさつは省略しますが、1853年(嘉永6年)、黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎を幕府に召聘し、直参の旗本の身分を与えました。土佐の貧しい漁師の子のアメリカから得て来た知識が、開国という大変な時期に幕府ひいては日本の国に大いに貢献したという大変刺激的なお話でした。色々な会合には出てみるものだと思いました。
お隣に座っていた方から送って頂いた<南国忌>の写真を許可を得て掲載致します。

〇直木三十五の墓所の掲示
〇墓参
〇元文藝春秋常務取締役の竹内修司様の講演
その方は天文学に詳しく、英文学者で戦前・戦後に天文学の普及・啓蒙に努められた野尻抱影氏の話題になりました。「今日竹内様が井伏氏の直木賞受賞選考の経緯でお話された作家の大佛次郎氏の本名は野尻清彦で、野尻抱影氏の弟さんです。」と申し上げました。「野尻清彦さんは私の父の旧制第一高等学校のクラスメイトなので、そのことを父から聞いていました。」などとその方と話が弾み、楽しい午後になりました。
閑話休題、本来のテーマに戻ります。
「阪神淡路大震災の回顧」(5)
「阪神大震災その時企業は」
1995年(平成7年)4月阪神淡路大震災の直後に出版された、日本経済新聞社の『阪神大震災 その時企業は 徹底検証 危機管理』と言う本があります。
1.流通大手の決断
この本の12ページ以下は当時のダイエー中内功会長兼社長の話です。
東京・田園調布にあった中内社長の自宅に阪神淡路大震災による店舗の被害状況の第一報が入ったのは、地震発生後35分後の6時20分でした。午前8時、中内社長は東京・芝のダイエー本社で地震対策本部会議を開催、被災地の店舗の営業再開を指示、関連会社の「ローソン」にもその方針が伝えられました。1月17日(火)はダイエーの多くの店舗は定休日でしたが、兵庫県内47店舗中25店が地震当日営業しました。ローソンは18日時点で273店舗中194店が営業にこぎつけました。
「ダイエーはなぜこれだけ素早く動けたのか ―― 中内氏が創業者の実力社長であり、様々な決断を合議ではなく一人で次々に下していけたことがその背景にある。」と同書は記述しています。地震当日中内氏は地震対策本部には会議の冒頭に顔を出しただけで、自室にこもり、対策本部からの被害状況の報告に対してトップダウンで自らの決断を下しました。
昨年12月9日(火)のブログの記事「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で、『ISO22301の「5.1 リーダーシップ及びコミットメント」では、先ず「トップマネジメントにある者は,BCMS に関してリーダーシップを実証しなければならない。」とされています。このISO22301で想定しているマネジメントスタイルは、欧米、特に米英豪型のものであり、その観点からは当然の内容ですが、わが国の企業に持ち込む場合、これを実行することは容易なことでは無いと思われます。』(中略)『創業者型の経営者、欧米の子会社のトップを経験し、欧米型の経営に同感している経営者を除いて、現状日本の経営者の多くは、ここで要求されていることは実行出来ないと思われます。』と書きました。阪神淡路大震災の時の中内社長はまさにISO2230が要求している通りのことを実行された訳で高く評価されるべきだと私は思います。
4.生産ライン確保に走るメーカー
この本の25ページ以下はトヨタの話です。『阪神淡路大震災発生当日、トヨタの豊田達郎社長と5人の副社長は東京にいました。首脳陣は「対策本部」の設置を決める一方、生産担当である大西服副社長は豊田本社へトンボ帰りをする。この時点で工場稼働を含め、生産に関することは大西副社長に決定権が委ねられた。17日正午から午後2時までの間に生産部門からの応援部隊の第一陣が現地へ向けて出発、』と記述されています。
トヨタも「BCMSにおける企業トップのリーダーシップのあり方」で要求されていることを実行しています。
私は、平成17年6月から中小企業庁「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議メンバーになりました。作業の一環として、その年の8月に受託の三菱総合研究所の方々とご一緒に神戸に行き、阪神淡路大震災の時の中小企業の状況のヒャリングを行いました。
何社かお伺いした中に、トヨタの孫請けの精密プレス加工の会社がありました。その企業の精密プレス加工は、トヨタにおける自動車生産の継続について必要不可欠の部分であるとトヨタは判断していたと思われます。阪神淡路大震災発生後、トヨタはその会社に応援要員をヘリコプターで送り込んで、精密プレス機械の調整・稼働の支援を行いました。プレス加工はガスが通じていなくても稼働出来ますが、電気と水は不可欠です。工場の高いところにあるタンクに水を補給するため、トヨタはポンプ付の給水車を回して来ました。何日か経つと、お弁当の中身に飽きたでしょうと、お昼のお弁当も豊田市から空輸されました。トヨタからの派遣要員は、その会社の方々が食事を済ませた後にお弁当を食べていたそうです。
「こちらから応援を頼んだわけではなかったのです。トヨタの仕事をしていて、本当に良かったと思います。」とその会社の会長さんがしみじみと仰っていました。
事業継続計画は2001年(平成13年)9月11日のアメリカ同時多発テロ事件後、非常時の際の準備が整っていた金融機関などが事件後速やかに事業を再開・継続したことから、喧しく叫ばれ始めたことです。1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時は災害復旧計画の時代でした。その時代にトヨタが生産工程に不可欠な部品の精密プレス加工の孫請けの会社を支援したというのは、驚くべきことだと私は思います。
2007年(平成19年)7月16日 - リケンの柏崎工場が新潟県中越沖地震で被災し、その影響を受け国内乗用車メーカー全8社が生産を一時停止した際、トヨタの技術者が真っ先に支援のために駆けつけ、国内乗用車メーカー各社が追随しました。私は流石トヨタだと再度感銘しました。経営者のリーダーシップ、及びきめ細かな事業継続計画の好事例が1995年(平成7年)阪神淡路大震災当時に既にありました。
重ねて書きますが、今東北大震災の回顧が盛んです。それも重要なことですが、首都直下地震対策のためには、阪神淡路大震災の記録をもっともっと活用すべきだと私は思います。
続きを読む »
「阪神淡路大震災の回顧」(4)
2015年3月1日日曜日 | ラベル: BCP, リスクマネジメント |
2月13日から3日間、飛騨古川と高山へ行ってきました。親しい東京二期会の歌手大澤一彰さんが創作オペラ「天生(AMOU)」の主役をされるので、仲良しのご夫婦と2夫婦4人で飛騨へ行きました。飛騨古川は高山から3駅先です。泊まったのは大竹しのぶ主演の「ああ野麦峠」の舞台となった明治時代から続く「八ッ三館」という料亭旅館です。平成16年国登録有形文化財に指定されています。
http://www.823kan.com/
飛騨古川では、一晩中雪が降り続きました。宿の窓からの景色です。
八ッ三館の窓からの雪景色
翌日、高山と夜はライトアップの白川郷へ行きました。飛騨には寒い時に行くべきですと、昔勤務した岐阜で言われましたが、その通りだと思いました。
雪の飛騨川です。
「困り果てたのはトイレだった」
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の後に出版された、時事通信社の『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』と言う本があります。阪神淡路大震災に遭遇した時事通信社の現地の方々の経験談です。今首都直下地震に備えて、色々なことが言われています。『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』の内容は今言われていることと大差はありありませんが、実体験に基づく記述ですので迫力があります。
この本の46ページはトイレの話です。「困り果てたのはトイレだった」と言うのが標題です。「トイレ事情も悲惨だった。本山第二小では校庭の隅に穴を掘り、シートで覆ったサッカーゴールを置いて、応急のトイレを作った。穴が1杯になるたびに場所を変えるため、周囲には悪臭が漂う。清掃は全く出来ず衛生状態は最悪だった。(中略)神戸市は地震の2日後からトイレの設置を始めた。しかし、十分に数が確保出来ず、全避難所に設置するには、約2週間かかった。」と記述されています。
私は、ご縁がりありまして2005年(平成17年)中小企業庁の「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議委員になり、その作業の一環として神戸市に阪神淡路大震災当時の状況のヒャリングに行きました。神戸市内の避難所になった小学校の近くの建設業者は「毎朝事務所の前が大小便だらけになり、洗い流すのが日課でした。」と言われました。避難所の小学校で大小便が出来ない避難者は、夜間に近くの路上で大小便をしていた訳です。阪神淡路大震災当時こういったトイレの状況、仮設トイレの問題は全く報道されませんでした。
2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする「中越地震」、2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする「新潟県中越沖地震」においては、仮設トイレの供給が遅れたことが問題になりましたが、公の場で議論されたということは進歩だと思います。更に仮設トイレは洋式が少ないので、高齢者には辛いということも報道されました。
神戸市の「阪神淡路大震災―神戸市の記録 1985年―」には、「避難所580ヶ所に避難民20万人を数え、仮設トイレは2100基~2200基あ必要と考えられた。」と記述されています。
下表は同書による仮設トイレの設置状況です
*設置台数最大 ✫直近1週間の1日あたり平均台数
神戸市の避難者は約20万人でした。『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』によれば、首都直下地震においては、避難者は最大720万人と言われています。36倍です。首都直下地震発生時に10万台以上の仮設トイレがすぐ集まるでしょうか。各人は自分でトイレ対策を樹てなければなりません。
東日本大震災における避難所の最大の問題はトイレの問題だったという調査結果があります。「困り果てたのはトイレだった」は今も生きていると考えます。
丁度この原稿を書いている時「日本トイレ研究所」から3月18日(水)に「災害用トイレ研究フォーラム」を開催するとのメールが来ました。参加しようと思います。
続きを読む »
http://www.823kan.com/
飛騨古川では、一晩中雪が降り続きました。宿の窓からの景色です。
八ッ三館の窓からの雪景色
翌日、高山と夜はライトアップの白川郷へ行きました。飛騨には寒い時に行くべきですと、昔勤務した岐阜で言われましたが、その通りだと思いました。
雪の飛騨川です。
「困り果てたのはトイレだった」
1995年(平成7年)の阪神淡路大震災の後に出版された、時事通信社の『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』と言う本があります。阪神淡路大震災に遭遇した時事通信社の現地の方々の経験談です。今首都直下地震に備えて、色々なことが言われています。『大震災を生き抜く「阪神」が教える危機管理』の内容は今言われていることと大差はありありませんが、実体験に基づく記述ですので迫力があります。
この本の46ページはトイレの話です。「困り果てたのはトイレだった」と言うのが標題です。「トイレ事情も悲惨だった。本山第二小では校庭の隅に穴を掘り、シートで覆ったサッカーゴールを置いて、応急のトイレを作った。穴が1杯になるたびに場所を変えるため、周囲には悪臭が漂う。清掃は全く出来ず衛生状態は最悪だった。(中略)神戸市は地震の2日後からトイレの設置を始めた。しかし、十分に数が確保出来ず、全避難所に設置するには、約2週間かかった。」と記述されています。
私は、ご縁がりありまして2005年(平成17年)中小企業庁の「中小企業BCP普及事業」プロジェクトの有識者会議委員になり、その作業の一環として神戸市に阪神淡路大震災当時の状況のヒャリングに行きました。神戸市内の避難所になった小学校の近くの建設業者は「毎朝事務所の前が大小便だらけになり、洗い流すのが日課でした。」と言われました。避難所の小学校で大小便が出来ない避難者は、夜間に近くの路上で大小便をしていた訳です。阪神淡路大震災当時こういったトイレの状況、仮設トイレの問題は全く報道されませんでした。
2004年10月23日の新潟県中越地方を震源とする「中越地震」、2007年7月16日の新潟県上中越沖を震源とする「新潟県中越沖地震」においては、仮設トイレの供給が遅れたことが問題になりましたが、公の場で議論されたということは進歩だと思います。更に仮設トイレは洋式が少ないので、高齢者には辛いということも報道されました。
神戸市の「阪神淡路大震災―神戸市の記録 1985年―」には、「避難所580ヶ所に避難民20万人を数え、仮設トイレは2100基~2200基あ必要と考えられた。」と記述されています。
下表は同書による仮設トイレの設置状況です
| 設置箇所数 | 設置台数 | 直営外収集台数✫ | |
| 1月 18日 | 7 | 79 | ― |
| 20日 | 155 | 280 | 25 |
| 21日 | 216 | 524 | 25 |
| 31日 | 462 | 2,381 | 25 |
| 2月 16日 | 546 | *3,012 | 11 |
| 28日 | 546 | 2,938 | 16 |
| 3月 31日 | 451 | 2,214 | 13 |
| 4月 30日 | 304 | 1,216 | 6 |
| 5月 31日 | 237 |
750
|
4 |
| 6月 30日 | 186 | 491 | 3 |
| 7月 31日 | 143 |
392
|
2 |
| 8月 31日 | 97 | 220 | 2 |
神戸市の避難者は約20万人でした。『国土交通省首都直下地震対策計画 [第1版](中央防災会議首都直下地震対策検討ワーキンググループ)』によれば、首都直下地震においては、避難者は最大720万人と言われています。36倍です。首都直下地震発生時に10万台以上の仮設トイレがすぐ集まるでしょうか。各人は自分でトイレ対策を樹てなければなりません。
東日本大震災における避難所の最大の問題はトイレの問題だったという調査結果があります。「困り果てたのはトイレだった」は今も生きていると考えます。
丁度この原稿を書いている時「日本トイレ研究所」から3月18日(水)に「災害用トイレ研究フォーラム」を開催するとのメールが来ました。参加しようと思います。
続きを読む »
登録:
投稿 (Atom)
